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京都千本釈迦堂で考えたー哲学としての仏教、宗教としての仏教

GWも終盤、久しぶりに京都千本釈迦堂(大報恩寺)へ行ってみる。なんとなく、西陣あたり歩きたくて。祭事でもないかぎり、ここはいつも静か。京都でも最も古いお寺の一つなのに、まぁ地味でお寺自体も商売っ気がなくて良い。周りには北野天満・大徳寺・金閣寺などなど、ビッグネームが沢山あるしね。


千本釈迦堂本堂(中に賢妻お亀の像が沢山)

古い本堂もいいが、やはり見どころは宝物殿の六観音。国宝の六体の観音様(鎌倉時代・定慶仏師)がプラスチックのシールドはあるものの、かなり間近に見れる。ガラスケースの中に鎮座されてるのとは迫力・親近感が違う。しかも、今日は一人でこの観音様を独占!仏像に詳しい訳ではないので、仏像を見るときは、細かいことはさておき、仏様とゆっくり向き合って、コミュニケーションというか、何かを感じるのが一番だといつも思う。



右から如意輪観音・准胝観音・馬頭観音・十一面観音・千手観音・聖観音様



さて、例えば海外に言って、「あなたは日本人だから仏教徒?日本人の宗教は?」とか聞かれることは結構あると思う。僕は割と、仏教徒だよ~と答えることが多い、”無宗教”と答えるのもロボットのように見られるようで嫌だからかな。でも、周り特に若い人を見ると、「いやぁ特に信仰ないです・・・」とか答える人が大半のようだ。そのくせ、神社仏閣には行ってお参りするのだが。このようにいわゆる”無宗教”の人はアメリカはじめ多くの国で、増えていると聞く。現代日本人の宗教観については、いろんな研究や意見があるからそれを読めばいいのだが、先日座禅会でお坊さんが言ったことが少し気になった。
「仏教を信じるという人も、その多くは仏教を哲学やライフスタイルととらえているようですね。」

実は僕も、相手にもよるが、そう答えることがおおい。「僕は仏教徒だよ、でも僕にとって仏教というのは宗教というより、哲学なんだよね」これは、半分本当だし、半分は相手が構えないようにするためだ。今の日本人は一神教・絶対神は怖がる、万の神みたいな、多様な、ファンタジックな神様の世界はいいけど。特に仏教に関していえば、オウム真理教の事件もこの恐怖感に拍車をかけただろうし、イスラム原理主義のテロなども影響しているだろう。

すっかり、定着したマインドフルネスもこの流れに通じる所があるだろう。以前、気になって少し勉強したことがある。Mindfullnessは、もともと初期の仏教の経典にあったSati(パーリ語)、敢えて訳せば気づきなのかな。仏教の根本真理である四諦(苦集滅道)や八正道の一部であり、心や身体、人の心理まで含む複雑な概念、修行だったらしい(良くは理解できてない!)。でも20世紀の終わり頃、アメリカのカウンターカルチャーの動きで仏教に関心がもたれ、又仏教側でももっと仏教の教えを広めるためのやり方が模索され、Satiをより世俗的なものに仕立て上げたことで、心をおさめる、”テクニック”としてマインドフルネスが始まった。今では、すっかり定着し、Googleをはじめ多くのグローバル企業の研修などでも採用されている。しかし、仏教色を取り去ったことで、受け入れやすいが、元々のSatiの姿とはかなり違う、少し底の浅いものになったようだ。

「でもね・・・」その座禅のお坊さんが続ける。
「その哲学的な部分は良いとして、僕たち僧侶はそれだけではすまないんですよ。やはり祈りや行にはパワーがあると信じているんです。比叡山で修行をすると、それを体感する。観音様ってまぁ日本人に最も人気の仏様で、千手観音・十一面観音・・いろんなお姿で人を救うわけですね。観音経という経典には、観音様がそのパワー、観音力でとてつもないことができる事例があれこれ書いてある、まぁこれは誇張としても。でも、その観音様の元になったと言われる聖天様は、うちの寺でも秘仏で自分も見たことがない、おそろしいパワーを持ってらっしゃる。ちなみに、この聖天様はインドのガネーシャが由来なんです。」

仏教のこの天部や秘法の側面になると、インドのヒンズー教の神々とのつながりは深い。今、総選挙が行われているインドでは、モディ政権下、ヒンズー教回帰の動きが激しいみたい。尚、インド人に言わせると、仏教はヒンズー教の仲間というか一派だとか。確かに、インドでそのように言われたことはあるなぁ、まぁヒンズーの神様も日本でいろいろ活躍しているわけだからそういう風に思われるのもわからなくはないか。



普段は、仏教の教えが現代の生活にとってどういう意味を持っているのかを、わかりやすく、ロジカルに説くお坊さん(天台宗)が、この日ばかりは、別の側面を語ったのが驚きだった。
これは加持祈祷を行う密教のお坊さんなのだからなのだろうか、他の宗派(例えば圧倒的に信者の多い浄土真宗とか)ではどうなのか? 
勿論、この仏様のパワーは信仰を広めるための「方便」として使われたことはあるだろうし、他の宗教(例えばカトリックのマリアの奇跡とか)でも同じであろう。でもそれだけではなさそうだ。

また考える。一応仏教徒を自任する自分はこの仏様のマジカルパワーを信じているのか、いないのか・・・。自分にとって仏教とは哲学なのか、宗教なのか・・・。結論はないんだが、そんなことを考えながら千本釈迦堂を後にした。


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