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水と月について語る

地球に月があるのは、偶然なのか?

月は、半径が地球の1/4ほどもある、巨大な衛星だ。
こんなに自分に近い大きさの衛星をもつ惑星は、他にない。
太陽系最大の衛星ガニメデは、月よりずっと大きく地球に近い大きさだが、木星と比べると1/10以下でしかない。
なぜ、地球にだけ、こんなに巨大な衛星があるのか。

私は、海沿いの街が好きだ。いま住んでいるところも、窓から海が見える。
海岸を散歩して、遠い対岸の光に無心に吸い込まれるのが好きだ。
潮が波打ち際で呟く独り言に耳を澄ますのが好きだ。
そしてその海の上、はるかに高く、月が孤高の輝きを見せる。

蟻 台上に餓えて 月高し (横光利一)

家の前には、先史時代の遺跡がある。その頃から、さらには人類が誕生するずっと前から、ここには波が寄せていたのだろうと思う。
生命の歴史に思いを凝らすのが好きだ。

人にとって、水が好きなのは、自然なことだ。
細胞は、生理食塩水で満たされている。人の体内には、海がある。

万人如海一身藏
(人みな海のごとく一身を蔵す)

蘇軾『病中聞子由得告不赴商州三首』1061年

蘇軾の詩は、都会に行って人の海の中にいれば身を隠すことができる、という意味だが、この詩句だけ取り出すと何となく違った意味に聞こえる。
人の海の中に、海水の一滴のように人がいる。そしてさらにその人の中、細胞の中にも、海水がある。

夜の衛星写真を見れば、どこに街があるかがわかる。
人の住んでいるところ、そのほとんどが、海沿いか、川沿いだ。
海沿いか、川沿い。つまり、水と陸の、境界地帯だ。
人だけではない。
多くの生物が、境界地帯に住む。水がないと生きていけない。

私たちは、地上のことはよく知っている。見ればわかる。
しかし、海の中のことはどうだろうか。
海の生物も、境界地帯に多いのだろうか。
魚は、陸がなくても生きていけるから、関係ない、と思うかもしれない。
けれども、そうでもない。
大陸棚と呼ばれる沿岸部分では、海が浅いため光が届く。
そこに河口から、上流の森で吸収した栄養分が流れ込む。
この光と栄養分とで、プランクトンが発生する。
そのプランクトンを魚が食べる。食物連鎖が起き、生態系が豊かになる。
陸の生物が海に引き寄せられるように、海の生物も陸に引き寄せられている。

すべての物事は、せめぎ合いの中、境界地帯で発展するのだ。

せめぎ合いがあるということは、波があるということでもある。
寄せては返す波。
その小さなさざ波の蓄積が、干潮と満潮とを行き来する大きな潮の波を形成する。
喜びと悲しみのあいだを行き来する心の波のようでもある。

海に潮の満ち引きがあるのはなぜか。

ご存知のように、潮の満ち引きの主な理由は月だ。
月の引力が海水を引き寄せるために、月の方に集まった水が満潮を起こす。

地球は1日に一回の自転をしている。
地球から見ると、月が1日に一回まわるように見える。
すると、満潮も1日に一回起こるのだろうか?

いや、そうではない。干潮と満潮は1日に2回起こる。
月の反対を向くときにも満潮が起こる。
なぜか?
遠心力のためである。

私たちは普通、地球の引力によって月が地球の周りを回転している、と考える。
しかし、引力は相互に働く力である。
地球の引力が月に働くとき、全く同じ力で月の引力が地球にも働いている。
そして、月の引力によって地球が月の周りを回転してもいるのである。

月が一方的に、地球に片想いしている、と考えてはいけない。
ニュートンの万有引力の法則に従えば、片想いは存在しない。それは見かけだけである。

地球と月とのあいだには、共通の重心がある。
その重心の周りを、月も地球も回っている。
月の方向にある重心の周りを回るとき、月の反対方向に遠心力が働く。
この遠心力と、月の引力とがつりあっている。
したがって、月の反対方向にも海水が寄せられて満潮となるのである。

地球が月の周りを回る、と考えると、地球が太陽の周りを回っていることも思い起こされるだろう。
月の引力ほどではないが、太陽の引力も、潮の満ち引きに影響を及ぼす。
潮の満ち引きは、月との間の引力・遠心力と、太陽とのあいだの引力・遠心力が合わさって作用している。

従って、月との間の引力・遠心力と、太陽とのあいだの引力・遠心力が重なるとき、つまり月の方向と太陽の方向が一直線上になるとき、満ち引きが最も強くなり、90度ずれるとき、互いに打ち消しあって、満ち引きが最も弱くなる。

それでは、月の方向と太陽の方向が一直線上になるときとは、いつなのだろうか?

それは図に書いてみればすぐにわかる。
新月と満月のときである。

私は、満潮のときが好きだ。干潟がなく、海水が目の前に迫り、波の音が耳をくすぐる。
満潮のなかでも、特に大きな満潮を見たかったら、新月か満月のときに海に行くのが良い。

潮の満ち引きが、月と太陽の引力によって起こる、というのは、なかなか衝撃的なことではないだろうか。

私たちは、地球の引力しか意識することはない。
月が夜空に輝くとき、ただその姿に見惚れる。
月が上にあるから、体が上に引っ張られて、いま体重が軽くなっているな、と思ったことがあるだろうか。
潮の満ち引きとは、そういうことを意味している。

そんなことを考えると、潮の満ち引きを見るだけで、自分が今宇宙にいるのだ、という意識が生まれる。
宇宙船に乗らなくても、宇宙を実感できる。ほんの少し、何かを知ろうとするだけでよい。

月が、潮の満ち引きを生むことはわかった。

けれども、ここで立ち止まらずに、さらに考えてみよう。
地球に月があって、潮の満ち引きがあるということそのものは、偶然なのだろうか?

いや、おそらく、そうではない。
もし、月がなく、潮の満ち引きがなかったら、いま海を見ている私たち自身が存在していなかった可能性がある。

地球に生物が誕生したのは36億年前のことだと考えられている。
それはどこだったのか。海の中である。
陸地では、生物が誕生できない。
生物は、ずっと海のなかにしかいなかった。
両生類や昆虫が陸上に出たのは、ほんの4億年前のことである。

そして、海と陸とは、環境が全く異なる。
海の生物が陸に進出する、というのは、全く不可能なことに思える。

人類は、火星や月に住めないか、と、夢想したりする。
他の天体を、居住可能な場所として開発すること、それをテラフォーミングという。
しかし、人類は他の天体のことまで考えながらも、すぐ隣にある海はお手上げだと考えている。
地表の70%を覆う海に、人類が住めるように適応する、というのは、想像もつかない。

他の天体に行くより難しい、海と陸との行き来を、しかし生物はやってのけた。
魚類が両生類に進化し、両生類が爬虫類に進化して、陸に進出した。

どうしてこんな異常なことが可能になったのか?

潮の満ち引きがあったためだ。

潮の満ち引きがある境界地帯、干潟では、満潮のときは海に、干潮のときは陸になる。
海と陸は、断続的に切り離されているのではなく、干潟の存在によって連続的につながっている。
干潟という中間的な地域が、両生類への進化を可能にしたのだ。

もし、月がなかったら。
もし、潮の満ち引きがなかったら。
おそらく両生類への進化も起こらず、哺乳類である私たちも存在しなかったことだろう。

地球に月があるのは偶然なのか?という問いに、これである程度答えることができた。

しかし、やはりここで立ち止まることなく、さらに考えてみよう。

潮の満ち引きがあるということは、前提として、海と陸とがある、ということを意味する。
私たちは、地球に水があることを不思議に思うのに、慣れている。

地球よりもっと太陽に近いところでは、高温のため水は水蒸気になる。
地球よりもっと太陽から遠いところでは、低温のため水は氷になる。
液体として水が存在するのは、ほどよい距離にある惑星だけの特権である。
摂氏0度は、絶対温度273K。摂氏100度は、絶対温度373K。
海王星の気温50Kから、水星の日中の気温600Kまでの間で、水が存在できるのは273Kから373Kまでの比較的狭い範囲である。

だから、水があることは、奇跡的だ、と考える。
宇宙に生命のある天体があるかどうか考えるとき、水があるかどうかをまず気にする。

しかし、水があることと同じくらい、陸地があることもまた、奇跡的なのである。

地球の大気が、窒素と酸素で構成されているというとき、それは赤道から南極・北極に至るまで、地球のすべてが窒素と酸素で覆われていることを意味する。
北半球は窒素、南半球は酸素、といった分離は、ありえない。

天体も通常、その天体を構成する主要物質で表面が均一に覆われている。
たとえば、ミルキーアクアマリンのように美しい水色をした天王星は、水素とヘリウムの厚い氷で覆われている。

コップに水を注げばわかる。
水を少しでも多く注げば、コップの底はすぐに水で覆われる。
コップの底に多少の凹凸があったとしても、一部だけ水で覆われた状態を作るには、水の量を本当に少しに調整しなければならない。
海と陸があるということは、地球に水が「ある」ということだけでなく、水がほんの少ししか「ない」という奇跡的な事実をも意味する。

そして不思議なことに、これもまた月と関係があるらしいのである。

もともと、地球の誕生初期、大量の氷が隕石として落ちてきて、表面は完全に水に覆われていたと考えられている。
そしてジャイアント・インパクト仮説によれば、地球は他の天体と衝突した。
この衝突の熱で、地球が溶けて、大部分の水が地中に吸収された。
表面の水が少しになったのはこのせいである。

そしてこの衝突で散った破片が地球の周りを周り、輪を作った。
この輪がお互いの引力で集まり、衛星になったもの、それが月の正体である。

ジャイアント・インパクト仮説によれば、この衝突がなければ地球には陸もなく、月もなかったことになる。

地球には水があり、陸があり、月がある。
そしてこの月が、水と陸とを出合わせ、陸上生物が産まれる機縁を作った。

夜に、波打ち際に散歩に行く。
かもめの群れが休む姿が、白い斑点のように闇に浮かぶ。
昼間に穴を出入りしていた蟹は、夜は静かに眠っている。
海の表面に、糸屑のような波が揺れている。
黒い海に、月が映っている。

人の悟りをうる、水に月の宿るがごとし

道元『正法眼蔵』1231-1253年

水のなかに、巨大な月がまるごと入っているが、月は濡れることがなく、水は破れることがない。
海だけではない。ちいさな水たまりであっても、草葉の上に残る一滴の露にも、月が宿っている。
と、道元は説いた。

私たちは、ときたま、ほんのときたま、何かが不思議だと気づく。
けれども、おそらくはほとんどのことに対して、そこに神秘があることに気づくことすらなく、一生を終える。
それもまた、不思議なことである。

私は、海沿いの街が好きだ。
潮が波打ち際で呟く独り言に耳を澄ますのが好きだ。
そしてその海の上、はるかに高く、月が孤高の輝きを見せる。
生まれる前から知っているかのような、不思議な親近感がある。
そのすべてに、相関性がある。
そのすべてに、神秘がひそんでいる。
なにかが、ものすごく、不思議である。
しかし何がどう不思議なのか、問いをたてるのが難しい。
目の前に奇跡があるのに、その奇跡を、認識できない。
ただ、漠然と圧倒されるだけである。

私の水には、まだ月が宿っていない。
私は水と月のことを、ほとんど何も知らない。

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