【風呂酒日和21-2】 鮒忠(ふなちゅう)
私は今しょんぼりした気持ちで歩いている。
というのも、十條湯を出て、今日の私はもうすでに行く場所が決まっていたのだ。
十条には友人が住んでいたことがあり、2.3年前はよく十条に訪れては駅周辺のお店で飲んだりしていた。
そのため、私は十条にお気に入りの店があったのだ。
久しぶりにそこに行けるとほくほくと歩いていたのだったが、店の前まで来て私は愕然とした。
昔と同じような提灯が下がっていて、てっきり「お、やってるやってる」なんて思って近づいたものの、そこは違うお店になっていたのだ。
なんてこった、いつの間に…。
私はしばらくその店の前で立ち尽くしてしまった。
貸切なのかもう今日は営業を終了してしまったのか、新しくなったであろうお店の前には「営業中」の看板が裏返っている。
あぁ…。
仕方がないので、私はあてもなく歩き出した。
美味しかったのに、残念だなぁ。
毎回変わるお通しが何種類かあって、店員さんが小さな手書きのメモを持ってきて、どれがいいですか?と見せてくれるのが好きだった。
小さいけれどいつも賑わっていて、おそらく家族経営でやっていたであろうお店。
切ない気分になりながらも、ふらふらとさまよい歩く。
もう駅はすぐそこだったが、駅の方にはなんとなく向かう気にはなれず、踏切を抜け、あまり通ったことのない向こう側に歩いて行ってみることにした。
さすが十条。
小さな老舗っぽい居酒屋や喫茶店、飲食店がぽつぽつと灯る。
しかし、なんとなく煌々と光る店内や、がやがや聞こえるお店には足を向ける気になれず、トボトボを引きずりながら歩いていると、ふと足元に灯る「鮒忠」という看板が目に入った。
やきとりという暖簾がかかっている。
焼き場の小窓と思われる隙間からちらっと中を覗くと、年季の入った深い茶色い木のカウンターが見える。
人の声はするものの、物静かな雰囲気。
うん。今日は、ここかも。
そう思って、私はカラカラと扉を開けた。
カウンターに常連と思わしきおじさんが3人。
私を見て、おじさんたちは無言でカウンターの向こうにいる店主に顔を向けた。「おい、なんか、見ない子が来たよ」といったような感じだ。
いらっしゃいませ〜と店主の声が聞こえる。
1人なんですが、と言うと、どうぞどうぞと愛想よく答えてくれた。
どこでもいいというので、カウンターではなく空いていた一番手前のテーブル席を確保。
今日は誰にも関わらずしんみり飲みたい気分だ。
いや、別にいつも1人なのだが。
メニューを眺める。
どうやら焼き鳥と鰻のお店らしい。
恒例の瓶ビールもあったのだが、私はなんだか生ビールが飲みたくなった。
生ビールを飲みたいというよりは、このなんとも行き場のない気持ちごとジョッキでごくごくと飲み干してしまいたいような気分だったのだ。
生は大、中、小とある。
「生ビール…中はどれくらいですか?」と聞くと、元気よく店主が「ご〜ひゃく!」と答えてくれた。多分なんと言われてもそれを頼んだ気もするが「じゃあ中で」と生中を頼む。
お通しはポテサラだ。
私は届いた生ビールを受け取りながら、店主のおじさんに串焼きの欄から「焼鳥」を一本とエリンギ焼きを頼んだ。
焼鳥とは?と思ったが部位を聞いても多分私には違いがわからないのでそのまま頼む。
到着した生ビールを静かに掲げ、ちょっと切ない気持ちで空虚に乾杯する。
勢いよく、と言ってもいつも炭酸のアルコールばかり飲んでいるくせに炭酸飲料を一気飲みできないので、精一杯ごくごくと飲む。
ふぅ。
少し落ち着いた。
悲しいし、もっと飲みに行けばよかった、なんて思っていたが仕方がない。
美味しいお酒と肴によって、私に十条で飲む楽しみを教えてくれたお店に感謝しながら、新たなお店を開拓することとする。
まず届いたのはエリンギ。
お行儀よくならんでいらっしゃる。
続けて焼鳥が来た。
すごくいいにおい!甘辛いタレの匂いは人を元気にする。
一気にお腹が空いてきた。
私は先ほどの鬱屈した気持ちを取り払い、串にかぶりついた。
うん、おいしい。
エリンギも、きちんと炭で焼かれていていい香り。甘辛のタレの味に、初めてのお店なのに安心するような懐かしさを感じる。
ごくごくと軽快に生ビールを飲み干していく。
生はね、スピードが命だよね。
順調に食べ飲み進み、ハイボールと明太おろしを追加で頼んだあたりで、カラカラと再び扉が開いた。
「あ〜しばらくぶり!いらっしゃいませ〜」
ゆっくりゆっくり歩いてカウンターの前に現れたおじいちゃん。
仕立ての良さそうなスーツを着て、首元にお洒落なスカーフを巻いているが、どうやらだいぶ高齢に見える。
「しばらくぶりったって、もうずーっとやってないんだもの」
おじいちゃんは店主のおじさんにボヤいた。
「いやぁね〜コロナだもん、しょうがないよね。ビールでいいの?」
おじさんは先ほどの「ご〜ひゃく!」と同じ調子で答える。
おじいちゃんは「あぁ」と言いながら、私のテーブルのすぐ近くのカウンター席に腰掛けた。
「親父さんは?どう?」
おじいちゃんが店主に聞く。
「え?も〜う、死んだよ死んだ!」
「えぇ?ほんとに?」
「もう1年3ヶ月前だよ!」
「あぁ〜、そう...」
「90よ!90!」
おじいちゃんはおそらく耳が遠いのだと思われる。
店主はそれを知ってか話の内容と反するくらいハキハキとした口調で答えた。
「あぁ〜そうかい、じゃあまぁね、大往生としましょうよ」
「そうね、よく頑張りました!」
おじさんは終始軽快に答える。
きっとおじいちゃんは、先代からの常連なのだろう。
少し黙って、ゆっくりと先ほど頼んだビールを飲む。
そんなやりとりを聞いているうちにハイボールと明太おろしが到着した。
うむうむ、どちらも馴染みのある美味しさ。
明太子をちょっとさらい、お通しで来たポテトサラダに少し乗せて食べてもまたうまい。
「なぁ、酒」
ゆっくり話すおじいちゃんは、生ビールのジョッキを空けないうちに店主に日本酒を注文した。
話すスピードはゆっくりだが、私と違ってビールも一気飲みできる酒豪なのだろうか。
そんなことを思いながら、明太子をつつく。
「はい!お酒ね〜!」
店主が運んできた日本酒をお猪口に注ぐと、おじいちゃんは「ほら、邪魔だよ」と言いながら店主が来た方に向かい、柱に手をつきながらゆっくり歩いていって、空席だった一番奥の座席のところで立ち止まり、一礼をして静かに1人お猪口を掲げた。
ちょうど横のカウンター席にいたおじさんたちが「え?俺たち?」とびっくりして、時が止まる。
「あーね!そこ、親父の特等席だったからね。わざわざありがとうございます」
店主のおじさんが、さっきと変わらない明るい口調で言う。
おじいちゃんは亡くなってしまった先代に、もう誰も座っていない"特等席"に、献杯をしたのだ。
なんだか、すごく心に響く瞬間に立ち会ってしまったかもしれない。
一番手前の席に座っておいてよかった…危なく特等席に座ってしまうところだったと思いながらも、少しまたしんみりとしながらグラスを口に運ぶ。
ちまちまと明太おろしを食べていると、カウンターの方からカタン、と音がした。
おじいちゃんのゆっくり話す口調はもとからかと思っていたが、だいぶ酔っ払っていたのかもしれない。
おじいちゃんが先ほど飲んでいたお猪口を転がしてしまった。
「あ〜あ〜こぼれちゃった!」
そう言いながら小走りで店主のおじさんが席を拭きにくる。
「テーブルに飲ませたってしょうがないんだからさぁ〜大丈夫?ズボン濡れなかった?」
「いいんだよそんなもん」
「そうだよな、たいしていいもん着てないもんな!」
おじいちゃんは、笑いながらテーブルを拭く店主をどつきながら「酒な」と言う。
「はいはい、おかわりね!」
私から見てもおじいちゃんはもうあんまり飲めなさそうなのに、止めるでもなくきちんと日本酒のおかわりを持ってくる店主。
「お前はなぁ、ほんとに。バカ息子でなぁ」
おじいちゃんはおかわりのお酒に手を伸ばさずに肘をついて語り出した。
「いいから!お酒飲みなさいよ!ねぇ!」
ずっと私が眺めてしまっていたせいか、店主のおじさんが私に同意を求めるように話を振ると、たしなめられたおじいちゃんはくるっと私の方を向き「怒られちゃった」とでも言うようにぺろりと舌を出した。
なんだろう。
なんだかこの空間が、このやりとりの全てが愛しく思える。
「あぁお嬢さん、もし1人だったら一杯ご馳走しますよ」
ぺろりに微笑みで返した私に、おじいちゃんがそう言ってくれたが私が答える前に店主のおじさんが「ほーらよそに話しかけないの!いいから!」と言っておじいちゃんをカウンターに向き直させた。
私は心の中で「もう、十分いろいろとごちそうになりました」とお礼を言った。
なんだか、いい夜に出会えた。
次に十条に来る時は、私はまたここに来る気がする。
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