佐藤可士和展
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前日の夜行バスで東京へ向かい、早朝から1時間かけて六本木まで歩き、
国立新美術館で行われている佐藤可士和展と、そこから徒歩約20分のところの岡本太郎記念館へ母と行ってきた。
ネットでたまに見かけていた佐藤可士和展。気になってはいたものの、東京であることから行く予定は無かったのだが、父に行ったほうがいいと推され、新学期が始まる直前のこの時期に行くことになった。
二つの展示を通して感じたのは、アートとデザインは創造するという点では似ているものの、やはり別物だということ。
デザインは、矛盾を無くし(矛盾を利用する例もあるが)、その商品やサービス、建物、空間に溶け込む存在であり、アートは矛盾や違和感を武器にし、その場をそのアートの世界に引き込むことがアートの良さだと感じた。
午前10時から約1時間、佐藤可士和展を堪能した。
最初から最後まで、とにかくかっこよかった。
色の使い方や圧倒的バランスの良さ。ビジネスとしてのデザイン。
個性がないようであるような、可士和さんのデザインはどれも洗練された作品と言える。
私は展示に行くと、ゆっくり楽しみたいのに、思考が焦ってしまう。
この発想はどこからくるのか、どうしてこのようなタッチ になるのか、この色の効果は何なのか、どうすればこんなレイアウトが思いつくのか、頭をフル回転させる。
そうしていると近くにいる母や、周りの鑑賞者の、素直に展示を楽しみ、作品に感動している姿で我に返る。
ロゴを作る場合、単純にロゴ単体を考えるのではなく、パッケージになった時、グッズになった時、別の何かと組み合わさった時、どう展開されるかも考えなくてはいけない。
デザインするものと誠実に向き合う。目の前のデザインを考えるだけでなく、もっと遠いところ、広いところまで考えなければならない。可士和さんのロゴデザインを中心としたパッケージデザインはどれも完璧に成り立っており、統一性と輝きを放っていた。
展示を見て、私は、デザインは技術力が必要とされるのではなく、発想力、企画力、マーケティング力が大切だと訴えかけられたようだった。
普段、大学で自分が作りたいと思い制作しているものはアートにもデザインにもなり損ねた、なんの価値もないものであるように思えてくる。
Adobeのソフトを使いこなすことや、印刷に関する知識、手の器用さは、作りたいものを形にしてくれるもの、創作を豊かにしてくれるものに過ぎない。私は自分が今できるスキルの中でデザインを考えてしまうことがある。そんな考えをしていたことが恥ずかしくなった。もっと根本的なところ、コンセプトやテーマ、そのデザインによってどういう影響があるのか、そこをもっと詰めていくべきだと痛感した。
自己満足では決して終わらない、社会のことを考えた、ビジネスとして成功させるデザインを作れるようになりたい。
可士和さんの説明ボードの中で、少年時代、剣道をやっており、剣道というよりは、だだっ広い道場の雰囲気が好きだったという話や、友達の整理された部屋に感動しただとかいう話が書かれてあった。そういう感覚が本当に大事なんだろうなと思う。
私も剣道を小学生時代に3年ほどやっていたが、確かに、稽古が始まる前、一番乗りした道場の静けさ、そこでしか味わえない雰囲気、響き渡る竹刀で打つ音、声、熱気はなんとも言えない心地よさがあったように感じる。しかし、思い返してみればそう思うだけで、剣道をやっているその当時、剣道の道場の雰囲気が好きだとか思えていたのだろうか。思っていたのかもしれないが、大人になった私はきっと、展示を見に行った日のように、剣道というワードを思い出さない限り、こうして当時の雰囲気を懐かしむことはないだろう。
私は大学に入ってから、街中に溢れるデザインを注意深く見るようになった。
三回生になった今は、ふと気づけばデザインを見ていたという感じなのだが、一回生のときは見なきゃという意識が強かった。
身近なところから学ぶことは沢山ある。そう先生にも言われ、ポスターやロゴなどを見つけたら観察していた。今は無意識に観察するようになったのだと思っていたが、無意識ではなく、意識的に見ることが習慣づいただけなのかもしれない。
見ようとしたら見えてきたもの、考えたら分かったことだけでなく、無意識に感じたこと、なぜか惹かれたこと、言葉にできないような感覚をこれから大切にしたいと思った。
画像は本文とは関係のない、以前描いたイラストです。