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当たり前の光景は、本当に当たり前?【現役大学生】#2

現役大学生の私が赤裸々に思ったことを綴っていくnote。本日のnoteは前回のnoteの続きだ。

「はじめまして」で言わないこと

  関西学院大学独自のプログラム、ハンズオン・ラーニング・プログラムのカリキュラムの一つ「社会探究入門」での授業で言われた一言が強く印象に残ったのだ。それは、「この授業の間は、属性を持ち込まない」この一言である。

  ここでいう属性とは、「生まれながらに持っている特性のこと」である。例えば、出身地や性別(これに関しては外見である程度わかってしまうので割愛)、学部などである。衝撃を受けた。何故なら、このことを伝えられたのが自己紹介のタイミングだったからである。

  自己紹介で話すことといえば、「出身地や大学・学部、過去の経験など」で、それらを話すことで話が盛り上がったり、相手を知ることができると思っていた。実際、私は自己紹介で『相手に興味を持ってもらって「また話したい!」と思わせるかがキーなのだから、自己開示をしてなんぼやん?』と思い込んでいた。だからこそ、通常の私なら話していたであろうことを話せないという縛りを設けられると、何だか急にギクシャクしてしまったことを覚えている。

  ちなみに、何故授業でそのような一言があったかというと、「固定概念や前提条件に囚われるのではなく、目の前の今の相手と対話すること」が重要だったからである。例えば、目の前の相手が4回生で自分が1回生だとしよう。すると1回生の自分は自然と「相手は先輩だ」と意識してしまうだろう。逆に、4回生の相手が自分と話すときは、きっと「後輩だから…」と口調を変えてみたりなどの気遣いが発生すると考えることが妥当だろう。
 
  これらの当たり前の光景は、対話を重視する授業において必要だろうか、と問われた時、「いらない」と答えるに値する議論が繰り広げられる授業が、私の履修した「社会探究入門」だったのである。

  実際のところ、白熱した議論が学部や学年問わず炸裂した半年だった。私が履修していたとき議論したのは「自由とは何か」ということだ。人は自由になりたい、と口にしがちだ。私も自由に頑張ってみたいだの、自由な発想で…だの自由という言葉に何の違和感もなく過ごしてきた人間の一人であるから、偉そうなことは言えない。けれど、改めて自由について様々な書籍を通じて考えた時に、自由とは何かわからなくなったけれど不自由は言語化しやすい事柄だと思った。裏返してみれば単純で、不自由ではないことが自由だと思うけれど、その自由は必ずしも幸せとはイコールではないかもしれない。そんなことに気付かされたものの、自由とは何かの言語化はまだ難しい。

  でも、考えるにあたって様々な考え方や自分の考えに切り込みを入れてより解像度を上げられたのは、濃密な議論の時間があったから。

  それができたのは、やっぱり固定概念なく話せた環境があったからだと思う。それに、授業でお互いのプライベートを明かさないでいると、授業ではないところで会ったときに出身地の話で盛り上がったり、かなり仲良くなってきて数ヶ月後に初めて本名知ったり、月日を経てはじめましての情報に出会うのはこんなに面白いことなのかと気づいたのだ。

人とのコミュニケーションって非効率?

  今やSNSでお互いを簡単に知ることができてしまう、何が好きで何に興味があるのか。しかし本来はそのような事はコミュニケーションの中で知っていき、そのことが仲をより深めるのだと思う。そういう古典的なやりとりを省略して効率化している現代社会で、古典的なコミュニケーションを大切にしていく精神を失わず生きていきたい。

  mbtiがINTJ-Aと診断された私は何でもかんでも効率化しようとしてしまう傾向にある。けれど、非効率だからこそ人間らしいんだし、非効率だからこそもっともっと夢が見れる。全部効率的になれば人生はきっと単調でつまらないだろうな。2回生ではもっと人間らしく、非効率さを楽しめるように、丸くならないといけないなと思いつつ、中々切り替えられず今まで来てしまったので、意識して変わっていきたい。いらないプライドを捨てたい。

  prideの反義語は、humility(謙虚さ)。humilityの語源は、ラテン語 humus(地面)+-ilis(~の)。そしてさらに遡ると、 印欧祖語 dheghom(大地)が語源。(サイト参照地面は全てを支え、全てを得るのだから立派な地面となれるように今は必死に地に足つけて、足掻いてみたい。

#現役大学生 #大学生 #INTJ #自己紹介


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