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改めてSNS、そしてnoteとの付き合い方

2021年に入ってからの私は少し低迷しているような気がする。まだ今年が始まってわずか10日間なのに自分の殻に閉じこもり気味で、またちょっとしたことで心が落ちてしまう日もあった。

だからSNSに触れない日が増えた。

何か生き急いでいる感を感じる。昨年から今年にかけて世の中が制限された生活を強いられることが多かった。私は比較的通常通りの勤務であったことからその影響度は低かったが、それでも目まぐるしく動くタイムラインを眺めているだけでその焦燥感が大きくなっていった。

とはいえSNSが悪いわけではない。今までマイペースにSNSと付き合えていたと思っていたのは思い込みだったのかもしれない。

たぶん、私はSNSには向いていないのだと思った。

三年半前にnoteを始めた。書くことが好きだったというわけではない。心の中に閉じ込めた思いを外に出すためだったのかもしれないが、本当のところは覚えていない。たぶんnoteというものが認知され始めたことからどんなものなのか始めてみようと思ったのだろう。最初は何から始めていいのかわからなかったし、書いたところで何者でもない私の文章を誰が読むのだろう。そんなふうに思いながら少しずつ書き始めた。

その後少しずつ更新頻度を高め、「お題」「コンテスト」や「個人企画」などへに参加したことで多くの人とつながった。普通に生活していたら出会えなかった人たちと語ることは、新たな価値観や世界観の発見でもあり、また単純に楽しかった。

そうやって実際につながることが少しずつ増えていった。

もともと人付き合いや自分をさらけ出すことが苦手な私が、リアルでは伝えられない心の闇を素直に書くことができるのがnoteだったのに、私はこの世界をリアルに持ち込んでしまった。そうやって広がっていったことと比例するかのように書けなくなってしまった。

リアルの世界との境目がなくなってしまったことで、マイノリティなことを書いたら反論されるのではないか、世間から外れたことを書いたら非難されるのではないかと勝手に想像してしまう。そうやってオブラートに包んで書いてしまう。それはごまかして書いているのと同じなのだと思った。

そして一体なんのために書いているのだろうと。


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以前、レーダーチャート診断を受けたときに、こんなことを書いた。

「揺らぎなき「何か」で書かれているかたくなさを感じました」と言っていただき、それまで自分の中で漠然としていたものが少し明確になった。

私の話を少し聞いてほしいだけ

これが、ゆらぎなき「何か」の正体だと思う。


あらためて、私にとって書くことは、その時々の思いを言語化したい。そしてほんの少し聞いてもらいたい。私にとって書くことの理由はこれ以上でもこれ以下でもない。

だからこれからは自分の思いを「私だけれど私でない私」に託して素直に書いていく。

こんな付き合い方もあるのではないかと思う。


これからは新たなZOOMなどのイベント参加は控えようと思う。私にとってはリアルの世界を生きることが優先順位高く、そしてSNSやnoteはそのリアルの世界の「息抜き」の場として大切にしたい。

twitterで絡むことが減るかもしれない。けれどnoteの作品はできるだけ読みたい。そして「スキ」だけ押すかもしれない。それは私なりのつながりの方法だと思っている。

矛盾しているかもしれないが、ここで出会った人たちは大切な友達でありこの関係はこれから先も大切にしていきたい。


それは何も変わらない。


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