ときには「戦う」ことだって必要
フリーライター&イラストレーターの陽菜ひよ子です。
ライターになりたい人は増えている一方で、案件は減り続け、AIの脅威も加わり、生き残りをかけた過酷な戦場となりつつある。
では「選ばれるライター」とは、どんなライターなのだろうか?
ライターに必要なのは才能より「プロ意識」
昔、ある人に「なぜライターになりたいのか」と問うたら「事務仕事はできないけど、文章なら書けるから」と返って来て、あごが床まで付きそうなほど驚いた。が、それくらいのゆるい意識で目指す人も少なくないのだろう。
かくいうわたしも、明確な意思をもって今の職を目指したわけではなく、なんとなく周りの求めるままにやってきたらここまで来ていたというような、ゆるい人間だ。
ただ、プロとして仕事をするのはそんなにゆるくも甘くもないことは自覚している。少なくとも「日本語が書けるなら誰でもライターとして通用するわけではない」ことは理解しているつもり。
もともとわたしはイラストレーターとしてスタートした。「絵が描ける人」は「文章が書ける人」と比べれば多くはない。だからといって「絵がうまい人」が誰でもイラストレーターとして大成できるわけではないことは、周知のことだろう。
だからといって「才能」が必要かと言われると、必ずしもそういうわけでもなく。絵や文章がうまいことより、キチンと締め切りを守る方が大切だったりする。
営業なしで仕事が入る=天職?
イラストレーターとしての自分はとにかく営業を頑張った。それなりに実績はあるが、どれも必死に営業して勝ち取ったものばかり。
周りの「才能がある」といわれる人たちは、展示やSNSなどで少しでもイラストが露出すればすぐに仕事につながる。その様子を見るにつけ、自分との違いを痛感したこともある。
そんな中で気づけば文章の仕事をすることになった。わたしの場合、イラストと比べて、文章はそれほど営業に苦労せず、大きな連載仕事が入って来る。もしかしたら文章の仕事の方が向いているのではないか?と感じた。
もともと、ただイラストを描くより、漫画の方が自分には向いていると思う。ストーリーのあるモノを、誰かに「伝えたい」と考えることの多いわたしにとって、取材は天職のように感じた。
引き裂かれて気づいた「時には戦うことも必要」
1年ほど前に、わたしのライターとしての根底をくつがえすようなできごとがあった。失意の中でnoteを読み漁っていた中で、出会った記事がこちら。
わたしはそのとき、ある人をあるモノから守ろうとした「つもり」だった。でもそれが相手には伝わらなかった(もちろん、うまく伝えられなかったわたしにも責任はある)。その結果、守ってかばったわたしの背中は攻撃でズタズタになり、守ろうとした相手からも鋭いナイフを胸に突き立てられた。
「あなたは真面目すぎるのだ」とも言われた。真面目で何がいけないというのだろう?相手に真摯に向き合うのがいけないというのだろうか。
世界中から否定されたような気持ちでnoteを読んだわたしを、このnoteは救ってくれたのだ。
そうだ、わたしはわたしのままで行こう。(もちろん、反省すべき点は改善するとして)
わたしがすべきことは、書く対象を糾弾することではないけれど、相手の言いなりに耳心地のいい言葉を並べることはない。ましてや、大きなモノの言いなりに記事を捻じ曲げることでもない。
時には相手にとって耳に痛いことを伝えることになっても、相手の中の真実や想いを、世間の攻撃から守りながら伝えていきたい。それこそが、わたしの考える「ライターの役割」だから。
ただ日本語を並べればできるような仕事ではないのだ。もちろん、善悪のわからないAIになどできるはずがない。
そんな仕事を、わたしはしていきたい。
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