頑張らせる系は支援者の限界が見える。
支援を受ける人のスタートラインは困り感を抱くところから。たいてい子どもの支援に関しては何か「出来るように」という目標を掲げたサービスを受け取る。通いはじめは
関係づくり→支援が届く→出来るようになる
とストレートでいけばこんな感じになる。
支援してる側も新規の子に関しては、やりがいの分、返ってくるものも早いし大きい。それは新しい環境を受け入れた時の成長がもたらすもの。
当たり前の存在の支援者になったとき
関係づくりが進み、いるのが当たり前になったとき本当の施設、支援者としての本質が見えるように思います。結果的には保護者と同様の困り感を持って、同様の関わりをしてグルグルと同じ状況を繰り返しているというパターンもよく耳にします。
そうなると面談をしても指針が出てこないので「しばらく、様子を見ましょう」というワードがあちらこちらで出る。
「様子を見ましょう」が続いたらもう限界
様子を見ましょう、よく言われます。そしてよく言う人がいます。そのワードを使うことを避難しているわけではありません。なぜ様子を見るのかをきちんと説明されているでしょうか?
何も今 手がないから様子を見ましょうという意味なのであればそれは支援とは言えません。今、支援を受ける側のキャパシティが限界だからという理由であれば落ち着くまで様子を見るというのは理解出来なくもありません。しかし、左記の意味であれば別のところに課題の重点が行っているのではないでしょうか?
支援目標が周りの人の欲求になっていないか
モニタリングは大抵半年に1度だと思いますが、目標や子どもが変わらないから困っているということで別の施設へ見学に行く方がいます。保護者の方が施設自体に困り間を持ち始めているのでしょう。また、目標は同じでも私はいいと思っています。成長は人それぞれなので時間が掛かる子もいます。
しかし、その目標に対する支援内容がずっと繰り返し同じものをコピペしたようなものもあります。これは"現状の子どもの姿"と"支援内容"に差が生まれてしまっている状況が想定できます。現状をきちんととらえられていないということはモニタリングにもミスが潜んでいるのです。ただ、周りの大人の「こうなって欲しい」という欲求に重点がある目標になっているのではないでしょうか。
まずは現状を知り、受けとめよう
周りの人の困り感から施設を利用することが始まりとなりやすい子どもの支援、施設利用。利用と同時に子どもの現状を知り、受け止め、理解しておくことで適切な支援を提供することが出来ます。支援は提供するだけでは意味がありません。受け取る側(ここでは子ども)が受け止められるものを提供しなければならないのです。
心の蓄えを作ることも必要
学齢期を重ねていくと、ただ受け止めるだけではなくある程度の生活年齢を意識して行かなければならないのもコミュニティに入るには必要です。頑張らせる事が悪ということでこれまで説明してきた訳ではありません。支援を受ける側の人を頑張らせなければならない時に心の蓄えをどこで作るかも考えないとすぐに限界を迎えます。そういう意味で余暇の過ごし方を支援する施設があるのです。
ハンデがある人だけが頑張らないコミュニティ作り
保護者だけ
支援者だけ
ハンデがある人だけ
誰かに頑張りが偏るようなコミュニティではなく、互いに支え合うコミュニティの中で生活する体験が、別のコミュニティに参加した時に大きな糧となり助け合いが生まれます。互いに限界をむかえない環境作りも支援の1つと捉えていく必要があります。
お掃除係の実習を体験した保育士さん、きちんとした指導・教育を受けられずも頑張る支援者さん…など現場に困り感を持っている方へサポートすることで、子どもたちに還元されるものがあるのではと信じています。よろしくお願いします。