リベラルアーツ入門 ~神話と芸能~

 少し前の話になりますが、2018年9月5日、「Japanリベラルアーツ入門~神話と芸能~」という公開講座を受講しました。「リベラルアーツ」と「神話」というふたつの言葉に惹かれて。

 「リベラルアーツ」は最近流行っている言葉で「教養」と訳されることが多いようですが、自己を様々な束縛から解放して生きるための力を身につける学問、という理解をすればいいのではないでしょうか。私たち人類は科学技術の進展によって様々な利便性や快適性を手に入れる一方で、自然環境破壊、原発問題など新たな課題を生み出してきました。人類がこれらの現代的課題に立ち向かうためには、分野ごとに高度に専門化された知識や技術を集めただけでは最適な解決につながるとは限りません。部分最適を寄せ集めても全体最適にはならないということです。人文科学、自然科学、社会科学など多方面にわたる分野を横串にした知識や考え方が必要となります。まさに今、リベラルアーツが求められる理由がここにあると思います。

 私は今、 ビジネスマンとして企業で働きながら古代史の勉強に取り組んでいます。また当時は、学芸員資格の取得を目指して通信制大学で学んでいました。私のような学びの取り組みを一般的に生涯学習と呼びます。そしてこの生涯学習の考え方はある側面においてリベラルアーツに通じるものがあると思うのです。学芸員課程の必修科目である「生涯学習論」を学ぶ中でそれを強く感じたこともあって、今回の講座に興味を持ちました。

 そしてもうひとつの「神話」という言葉。古代史の勉強には古事記や日本書紀、いわゆる記紀を読むことが欠かせないのですが、これまで独学で勉強してきた私は実は記紀神話に関する専門家の話を聴いたことがありませんでした。この講座でその専門家の話を聴いてみたいという思いと、リベラルアーツをタイトルに据える講座で語られる古事記は単なる解釈論ではなくて何か面白そうな話が聴けそうだとも思いました。また、神話と神楽のつながりを連想したこともあって「芸能」という言葉にも少し興味が沸きました。

 さて、タイトルに「神話と芸能」とあるとおり、講座は2部構成になっていて前半が麗澤大学の岩澤先生の「古事記から読み解く日本人の思考法」、後半が清泉女子大学などで講師をされている武藤先生の「歌舞伎の表現-音を見る・動きを聴く-」という構成でした。

 第1部の岩澤先生のお話はユダヤ・キリスト教神話と古事記神話を比較することで、英語文化圏の人々と日本人の間に横たわる民族性の違いや思考法の違いを浮き彫りにして (日本人を単一民族と考えることの是非はともかくとして)、 日本人とはどういう民族なのかを解き明かそうとするものでした。その解明プロセスが大変ロジカルでわかりやすく、まさに論理性や言語化を重視する英語文化圏アメリカで学ばれた先生ならではのわかりやすいお話でした。

 ユダヤ・キリスト神話の創世記において神は天地や人間、その他この世の全てを創造しました。翻って古事記神話の始まりをみると、「天地(あめつち)初めて發(ひら)けし時」と天地がどのようにできたのかは記されず、次いで「高天原に成りし神」として天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三神がどこからともなく出現します。そしてこの三神を皮切りに次々と神様が生まれ、その神々が日本の国土や山川草木などこの世の様々なものを生み出していきます。人間はその神様と血のつながった子孫として描かれています。

 このように両者を比べると、神話のスタート時点から大きな相違点を見出すことができます。創世記においては神はこの世のすべてのものから超越したものとして初めから存在し、その神が天地を皮切りに人間を含むこの世の全てを造り出しました。この明快な神話に比べて古事記では、天地がどのように出来上がったのかがわからず、神様もいつのまにかそこに存在しています。この曖昧さはまさに日本人特有だと思いました。先生によるとユダヤ・キリストの神様は「創造の神」で、記紀神話の神は「生成の神」であるといいます。なるほど、「造る」と「生まれる」の違いか。

 日本人は神社に行って神様を拝みます。日本にある神社の数は8万とも10万とも言われ、その多くは記紀神話に登場する神様や土地の守り神を祀っています。天照大神を祀る神明神社、素戔嗚尊を祀る八坂神社、住吉三神を祀る住吉神社、建御名方神を祀る諏訪神社などです。一方で全国の神社の約半数を占めるとも言われる八幡神社に祀られる神様は八幡さま、つまり応神天皇です。また天神さんと呼ばれる天満宮では菅原道真が祭神となっています。最近の神社では明治神宮は明治天皇を祀り、乃木神社では日露戦争で活躍(?)した乃木将軍が祀られます。

 現代人の感覚で言うと神様を祀る神社と人間を祀る神社があるように思いますが、後者も人間を祀っているわけではなく人間が神様になって祀られているということだと思います。そう考えると天照大神や素戔嗚尊も、もともとは人間であったと考えることができないでしょうか。記紀神話に登場する神様はもとは人間だった、つまり記紀神話とは人間の所業を神様の話に置き換えた物語であると言えないでしょうか。記紀神話を神様の話と決めつけてしまえば全てがウソ、創作された話ということになり、逆に人間の話と思えばそこに何らかの事実があったと考えることができます。

 記紀神話というのは、ときの為政者、権力者が自身の権力や地位を正当化するために自身の祖先が神様であったとする系譜、つまり自身は神様の子孫であることを謳うための系譜を作り出そうとしたことから生まれたのです。古事記、日本書紀の原典であったであろう帝紀・旧辞あるいは天皇記・国記、各地の風土記などは各地の豪族や中央の氏族を含む権力者側が作ったものです。

 一方のユダヤ・キリスト神話はどうなのでしょう。詳しくないので間違いかもしれませんが、ユダヤ教成立の経緯と合わせて考えると少なくとも権力者、支配者が生み出したものではなく、支配・被支配を否定する発想から人間を超越したところに神(エホバ)を存在させたのではないでしょうか。権力者、支配層よりも上に神を存在させて、人間は平等であるとの思想のもとに神に祈る。この感覚は日本人である私にも理解できます。しかし日本人は権力者の祖先である神に対して手を合わせて祈ります。よくよく考えると不思議です。日本における権力者は民衆を苦しめる存在ではあったものの、必ずしも民衆の絶対的な敵ではなかったのかもしれません。受講の感想を書きながら発想が広がってしまいましたが、これについてはおいおい考えて行きたいと思います。


 さて、第2部の武藤先生の歌舞伎のお話。想像していた神楽などの芸能の話ではなくて、歌舞伎の楽しみ方のお話でした。私は生まれてこのかた、歌舞伎にわずかでも興味を持ったことが全くなかったので、この第2部への期待は古典芸能であるから少しは古代史に関連する話が聞けるかも知れないということだけでした。しかし、その淡い期待は裏切られ、古代史につながる話は全くありませんでした。その代わり、全く興味のなかった歌舞伎に初めて興味を持つことができました。

 武藤先生によると、歌舞伎の楽しみ方は黒御簾(くろみす)音楽に集約されている、話の筋や内容はどうでもよくて演技に合わせて演奏される黒御簾音楽を聴くことが歌舞伎を楽しむコツだというのです。実際に舞台の映像を見ながら、聴きながら教えてもらい、その意味がよくわかりました。「音を見る・動きを聞く」というタイトルの意味も理解できました。そして、歌舞伎を観てみたいと思うようになりました。単なる食わず嫌いであった自分に気付いたことは大きな収穫でした。


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