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毒親という言葉が苦手です。縛られてしまいそうになります。

毒親診断をしてみたら、私の両親は、その可能性が高く、私自身は低いようです。
まあね、成育歴などを考えると、過干渉で心配性の母や価値観が固定的な父がそうなっても仕方がないとも言えます。それに、父などは戦争経験世代。その影響がないわけがない。
多かれ少なかれ誰しも毒親だと思います。
それ以前にそれぞれの社会からの影響があって、自分自身が救われていなかったり、よく言われるトラウマだってあるでしょう。

母が私について悩んだときに、私をよく知る方にちょっとご相談したそうです。
その方(かつての私の職場の先輩でした。)は、私をよく覚えてくださっていて、同じようなことを母に話したそうです。

ある娘さん夫婦と同居している(あるいは婿取りさんかもしれません。)お嬢さんが、ある日から全然口を聞いてくれなくなったと訴えるお母さんに、娘さんから聞いていたことを伝えたらしいのです。ずっとずっと親の思い通りに育ってきて、いわゆるいい子だったから、子どもの気持ちを聞かずに育ててきたのでは?ということで、私もいい子に見えたのでしょう。その話を聞いたと母から連絡があり、謝ってもくれました。

謝ってくれることは嬉しいのですが、でも、仮に母のかつての状況として、そうでなければならなかったのだとしたら、それはそれでよかったのではないか?と思うのです。それに私は今でも、別にいい子でいたくないわけではありません。

先日、noteにも書いた通り、自己肯定感、他者肯定感診断では、私は人格者タイプとなりましたが、そのことに対して、

そうかもなあ・・・。

とは思いますが、そのことをことさら嫌なわけでも、周りに悪いとか思っているわけでもありません。私はそもそも正しいことが大好きなのです。正直それで文学やってていいの?とも思うくらいです。

今日も、生徒の赤本を取りに行った本屋さんで、雑貨とお洋服のセールをやっていたので、ちょっと遊び程度に自分に当てて、鏡で見てみました。
ただ長方形に編んだだけのショールみたいなのがあり、その片隅にボタンが付いていました。
私の方に掛け、ボタンを付けてみると、可愛いけれど、サイズが合わない。つまりは私がワイドだってことですね。でも、そのデザイン、なで肩の私にとってもよく似合っていて、

編みたいね・・・。

となりました。私ときたら素敵なデザインのお洋服があると縫ってみたいになるし、母は今日、これ、簡単そうやから編んでみたい、と言って喜んでいました。

ところがそのショールをハンガーに掛けて返そうとしたときに、一つボタンが取れていることに気付きました。さっきどうだったんだろう?
落ちた音もしなかったし、どこにも落ちていないし。
おそらくは最初から取れていたんだろうけど、これをもし私がしたんだったら・・・?

と思い、私はレジに行って、すべてを話しました。

初期不良かな?

と言って、雑貨の担当さんに言っておきます。

とのことでした。

私は、こういうとき、それがいいわけでもないのだろうけれど、はっきりしたくなります。おそらく友人と一緒に行ったとしたら、私は面倒くさい奴かもしれません。
でも、誰が私の顔を知っているかもしれません。現実に私の顔が出ている場所で、たくさんの人がそれを見るというところもあります。
チェリーの先生、それを知らん顔してハンガーに掛けて帰って行った、と言われてもチェリーそのものに申し訳ないし、かといって買いたいか?と言ったらそうでもない。条件が合わない。でも、もしももしも私がボタンを落としたのだったら?

そういうとき、ちゃんと言って、ちゃんと相手に自分が悪い可能性もないわけではないけれど、おそらく違います、と説明します。
公明正大でいたい。それに謝る分は謝りたいのです。

かつて大学図書館で、本を延滞した時、それが結構な日数になったとき、私は平身低頭謝りました。悪いことはわかっていたけれど、何かの理由で、大学にどうしても行けなかったのです。今なら、それがわかった時点できっと電話するなりしたことでしょう。
当時、私は謝ることしかできませんでした。
でも、精一杯謝ったら、司書の方があまり怒られなくて、ありがたかったという話をしたら、友人の一人に、

それ、十分打算が働いてると思うわ・・・。

と言われて、ああ、私って、打算的ってことなのか?

と真剣に考えてしまいました。
怒られることを予想していたのに打算になるのかな?と思っていたのですが、彼女がいつも私には風当たりがきついのには理由があったのだと違う友人から後で聞かされました。それが本当かどうか?私は彼女が私には風当たりがきついとも思っていませんでした。

ということで、私は、いい子ぶってるというよりもその場での責任をチャンと取っておきたいのだと思います。その後で、そのことが精神的負担になったり、やましい気持ちになったりしないように。そんなことで後々引きずって、その後しなければならないことに支障が出て来ることの方が嫌なのです。

だから別に正しいことがしたくて、正しいことが好きでもいいと思うのです。何もいい子が悪いわけでもありません。
私はずっと面白い人だと言われてきました。正しさだけで生きているわけでもありません。
割りに融通も利くようです。

親がそれぞれに事情があったり、その場その場で精神状態がおかしいことがあるのはどこのお家だってそうです。
子どもたちの成長に良くない影響があることもあるし、良くないからこそ自立が早くなったり、あるいは優しい人になるということもあります。

私はそもそも勉強に偏って、その人自体はエリートだとか専門職に就いていても、やはり弱者に思いを致さない人は苦手です。
そのことを高校に入ってものすごく意識しました。

でもごく稀に、なんでこの人、こんなにできるのに、いわゆる競争に勝ってきた人なのに、どうしてこんなに人間としても温かく、不遜でなく、偉そうでもなく、常識的に普通なんだろう?という人にも出会います。
思えばその人は、辛い思いもたくさんし、そのことを乗り越えてきたのだろうと思います。でなければ、相手の痛みに気付くことが難しいと思うのです。
そうなれば、その人が乗り越えた苦労こそが、その素晴らしい人を作り上げたとも言えるわけで、もしかしたらご本人は大変かもしれませんが、この世にそういう人がいるというだけで、それは社会のとっては相当ありがたいことになります。

親からさせられた苦労を、良くないこととしてだけ捉えるのではなく、そのことがあったから身に着いたものももっと評価していいのだと思います。
自分の中の生きづらさに注目するか、それともだからこそできるようになったり、乗り越えてきた自分を評価するか?
これしも自己肯定感の問題かもしれませんが。

かつてドラマの「アンナチュラル」の中で、主人公が、とんでもない過去を背負っていながら、人のためになる仕事を一生懸命していて、加えて、養母として養ってくれた叔母一家の愛情を一杯受けて、それでも癒されていない心をもちながら日々を生きていて、最終的には、

絶望している暇がない。

という言葉をふと口にします。
そのことが生きるということのすべてを語っているような気がします。
生きづらさから逃れようする。誰でも自分の人生をより豊かなものにする権利があるのだから、そのこと自体は当然です。しかしあるべき姿ーそのあるべき姿にとらわれ過ぎたとしたら、それは自分も縛られてしまうと思うのです。
トラウマになることもあります。フラッシュバックもあるでしょう。
でも、そのことに囚われるのではなくて、それでも、それが薄まるように努力し続ける。過去は変えられません。
嘘です。過去は変えられます。今がよくなれば、過去の意味は変わります。

もちろん、人としておぞましいことを容認してはいけません。人倫にもとることは許してはいけないと思います。
ただ、すべての親の在り方を否定しなくてもいいと思うのです。
どの道、自分が親になった時だって、必ずしも立派な親になるとも限りません。親と同じようなことをしてしまうことだってあります。

人間だから。不完全だから、人間なのだから。

私の親も毒親かもしれません。
でも、仮にも、曲りなりに勉強させてもらえ、食事もし、毎日を過ごせてきたのなら、もっと大変な人がいる・・・、というある意味安易な意味ではなくて、そのこと自体のプラスの面にだけ感謝し、足りない部分はできるなら自分がそうする側になったときにはよりよくしてあげよう、と思うくらいでいいと思います。

私は今でも、理想の母を求め、どこかで○○であってほしかった、というような、良い母を求めてしまいます。
確かに母親としての姿勢は私と母では随分違うなと思うこともあります。

でも、それも、同じ立場になったら、私も母と同じようなことを言ってしまうのかもしれません。
私は母を、母としてではなく、一人の人間として、私よりも強い面も、そしておそらくは私よりも弱い面も、受け止められるようになりたいな、人間として成長したいなと思っています。
それには、私自身が私をもっと認めなければならないこともわかっています。
そのことを受け入れられるように、工夫してみたいなあと思っているのです。

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