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【ふるさとを語る】『晩成社展』十勝開拓の歴史を辿る その2 ~開拓と土地の取得~【歴史シリーズ】
🟥はじめに
その1はこちら
どうも☺️。地味に毎日投稿継続中です。
今回も、その2と題しまして『晩成社展』の~開拓と土地の取得~の様子をお届け致します🙇♀️。
お仕事の休憩中などにもサッと読めるよう、コンパクトにまとめたつもりです。(文字数や写真枚数が多過ぎると、スクロールが大変になると思ったため)
よろしければ、お付き合いください。
🟥『晩成社展』の様子 その2 ~開拓と土地の取得~
※写真撮影の許可をもらっております。
🔴北海道を探索する
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北海道開拓の志を固めた依田勉三は、単身北海道へ渡ってすぐに、北海道の各地(箱館から胆振、箱館に戻り根室へ、そこから釧路国~十勝国~日高国)を調査します。
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右は2度目の探索の記録『依田鈴木北海日記』。帯広の土地の良さや、開けた様子が綴られている。
苫小牧、札幌を経て帰途につき、郷里の静岡で兄・佐二平と園、善吾、勉三を発起人として、晩成社を設立しました(資本金は5万円)。
その当時の様子を伺い知れる、貴重な写真や史料の数々をどうぞ。
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下は、依田勉三覚悟のこじき姿。現代で言う所のコスプレにあたるようで、そうした状況においてもめげずに開拓を進めようという意味があるそう。
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下はおそらく同日に撮影されたもの。
🔴開拓と土地の取得
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1883年(明治16年)、いよいよ開拓が開始されます。しかし、文字通り苦難の連続でした。
まずシカ猟の野火が襲い、次にイナゴの大群が襲いかかります。
食糧用として蒔かれたアワも、ウサギ🐰やネズミ🐹、鳥🦜の被害に遭いほとんど収穫出来ませんでした。
その上、土地の申請も中々許可されず、晩成社及び依田勉三は二重の意味で開拓の苦労を味わいます。
状況に絶望した移民団は次々と離脱し、当初13戸あった移民は3戸まで減少してしまいます。
状況が好転したのがそれから数年後の1892年(明治25年)の事。行政が十勝の土地の測量を始め、土地の様子が分かるにつれ、申請の許可が出やすくなります。
翌1893年(明治26年)、漸く許可を受ける事ができました。
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右は、晩成社の規則。15年間で1万町歩(1町歩は9917㎡)の開墾地を経営するなど壮大な計画が盛り込まれた。
🔴当時の北海道の地図を見る
一方で、北海道全体で捉えた場合、開拓はどれだけ進んでいたのでしょうか?
その事を伺い知れる、貴重な史料をこちらでご紹介します。
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🟥今回のまとめ
🔴依田勉三は北海道各地を探索し、豊かで開けた土地の帯広を開拓地に決定した。
🔴晩成社を設立し、移民団と共に開拓を始めるも、あらゆる事業が上手くいかず、土地の申請の許可も出ず、苦難の連続だった。
🔴開拓開始からおよそ10年の1893年(明治26年)に、漸く申請の許可を受ける事が出来た。
🟥最後に
如何でしたでしょうか?
平野部が多く土地の豊かな、素性の良い十勝と言えど、未開の地を開拓するのは筆舌に尽くし難い大変さがあったと思います。
晩成社は様々な事業を行うも、そのいずれも上手くいきませんでした。
しかし、晩成社の不断の努力により、その様々な事業はいずれも十勝に根付く産業になり、現在食料自給率1300%超の生産力を誇る、食料基地・十勝が出来上がる礎となりました。
そして、晩成社の不断の努力があったからこそ、今の筆者がある。と考えると、甘ったれの筆者の身が引き締まるものがあります。
晩成社の方々には感謝と尊敬の念しかありません。
次回は、その3~産業への挑戦~をお送り致します。お楽しみに☺️。
それでは、今日はこの辺で🤗。
また会いましょう☺️。
その3はこちら
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