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謎に包まれる聖ユッタ,ユッタとヒルデガルトとの出逢いに迫る⁉︎ 𝕳𝖎𝖑𝖉𝖊𝖌𝖆𝖗𝖙𝖊𝖓 𝕹𝖔𝖙𝖊

聖ヒルデガルトの世の中に必要とされた神からの啓示を読み取る能力は天性だけのものではなく、“聖ユッタとの出会いから培われたもの”だと、歴史を辿るごとにそのように感じています。

聖ヒルデガルトを語るにあたって、聖ユッタの存在は欠かせないでしょう。

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【聖ユッタと聖ヒルデガルトの出会い】

ヒルデガルトが8歳のとき、十分の一税(すべてのものの10分の1を神に捧げること)が一般的に子供にも適用されていた時代に、10番目の子供として生まれ、「神に捧げられ」、修道院での修道生活を指定されていたため、バート・クロイツナッハ近郊のシュポンハイム城にある親戚のところ(ユッタのところ)に住むことになったのです。

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▼十分の一税についてはこちらをご一読ください

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「子供の捧げ物は、何世紀にもわたってほとんどの修道士や修道女として行われてきたが、1106年の時点では、この親の行為はまだ不可逆的であると考えられていた」と歴史研究者は断言しています。

なぜヒルデガルトが教会に捧げられたのかは不明ですが、ヒルデガルトには多くの兄弟がおり、初期には幻視体験の兆候があったことを考えると、幼いヒルデガルトを教会に捧げることは、両親にとって都合の良い動きであると同時に、政治的な同盟の一つであった可能性が高いと考えられます。

ヒルデガルトの家族が住んでいた場所からもユッタが住んでいた場所がほど近く、シュポンハイム家と良好な関係にありました。
シュポンハイム家もヒルデガルトの家族と同様、貴族でした。

ユッタは非常に裕福な高級貴族の家系でありました。実際、ヒルデガルトの父親は、シュポンハイムのステファン伯爵に仕える、財産は持っているが無位の騎士であった可能性が高いと言われています。

シュポンハイム城では、6歳年上のいとこであるユッタ・フォン・シュポンハイムとともに、未亡人のウーダ・フォン・ゲルハイムの世話になったと言われています。

つまり1106年から、ヒルデガルトは8歳、ユッタは14〜15歳の頃から、ヒルデガルトは、ー親戚のユッタに教育を受け、最初はユッタと一緒にシュポンハイム修道院に住んでいたようです。

ユッタはヒルデガルトに、文字を書くこと、ラテン語の詩篇集を読むこと、そして正典の時間を毎週連続して暗唱するオプス・デイ(「神の仕事」)を唱えることを教えました。

また、10弦のプサルタリーと呼ばれる琴のような弦楽器(手で弾くダルシマーのようなもの)の伴奏をすることを教えました。

ヒルデガルトは庵の中で多くの時間を読書に費やしていたようで、彼女の文章から、非常によく読まれていたことがうかがえます。

母の死後、ユッタは聖地巡礼に行きたいと思っていたそうです。1108年から、シュポンハイム伯爵家がベネディクト修道院の敷地内に女性用の庵を作ることで、ユッタの兄のメギンハルトは、妹のユッタを1108年に新しく設立されたディシボーデンベルグ修道院に入れることで、聖地巡礼を防ぐことができました。

ユッタを初代マギストラ(指導と育成)として、ディシボーデンベルグに女性のための庵が設立されました。

ヒルデガルトは後に自分のことを "indocta"(「無学」)と呼ぶことを好みました。

それはおそらく「教養」についての知識が少ないことを示していたのでしょう。
しかし、たとえそれが高等聖職者の正式な学術教育の枠組みの中で行われたものではなかったとしても、彼女が他の少女よりもはるかに多くの教育を受けていたことは間違いないと思います。

ヒルデガルトは、毎日何時間も祈りに費やしただけでなく、「詩篇の研究、祈り、分析、そして聖典の読解」によって、ラテン語や釈義の能力を驚くほど身につけたのです。

これも聖ユッタのお陰ですね。

最後にプサルタリーという楽器がどのようなものであったか…
紹介されている動画をご覧くださいませ。

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