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3人のホルヘの話

 「石を投げればホルヘに当たる」と言われるほど、たくさんのホルヘがいるスペイン語圏のアルゼンチンで、僕にとってかけがえのない大切なホルヘが3人いる。そのうち2人は日本はおろかアルゼンチンでさえ知る人ぞ知る存在だが、最後の1人はケーナを吹く人やアルゼンチン音楽が好きな人にはおなじみかもしれない。

 ホルヘ・ロレフィセさんは音のマッサージ師である。
あんなことこんなこと、そのほかにも(これもいつか書くが)コロンビアのシャーマンに全身燃やされるなどとんでもない経験をいくつもした濃密すぎるツアーを終えてブエノスアイレスに戻ると、あの街の喧騒がかつての100倍ぐらいの轟音で僕の脳味噌に鳴り響くようになってしまっていて、気持ち悪くて耐えられるものではなかった。そこに救いの手を差し伸べてくれたのが彼である。
人間の身体は6割が水分だから、その水分を楽器から発せられる振動で整えることで身体は良い状態になる。熟練すれば、楽器を用いて身体の不具合を見つけることもできる、と彼は信じていて、もう人生の半分以上その第一線の実践者として活動している。
しかし驚くべきことに、彼は聾者だ。聾者の父を持ち、手話を母語の一つとし、音楽を罪悪のように言われながら育った僕は、それを知って最初は軽いめまいを覚えるほどショックだったが、彼と過ごす時間の中で合点がいく瞬間が多々あった。というか、彼は全身が耳のような人間なのである。
僕は彼から音のマッサージの稽古を兼ねた数日間の個人集中セッションを受け、最後に試験も兼ねて、彼が主宰する一晩かけて行うセッションに彼の助手として参加させてもらった。この経験によって僕の耳はぐっと開かれたと今でも感じている。夜通し行われたセッションでは、一度だけ意識が遠のいて「うるさい!」と叱られたのだけど、どうにか合格点はもらえた。
それ以来、僕自身は音のマッサージについて特に宣伝もしないので、日本では全くやる機会がないのだけれども、伝わる人には伝わっているようで、パタゴニアの山奥やエクアドルのとある火山の中など、全くもって辿り着きにくい場所にばかり呼ばれてやりに行くことがままあった。アルパカや鯨にやってほしい、という依頼もあった。
彼も今や人間には飽き足らず、馬や犬にもやっているそうだ。まぁ、そうなっていくんだろうと思う。

 ホルヘ・ロトンドさんは役者で演出家である。
深く澄み切った眼、立派な腹、よく通る声、時折見せる慈悲深さすら感じさせる笑顔…。これまで何本のワインを彼と空けたことか。完全なる独学なのに「とても自然でブエノスアイレスっ子かと思ったよ」なんてたまに褒められることもある僕のスペイン語能力は、彼と彼の芸術仲間との呑み会の場で鍛えられた賜と言っても過言ではない。目まぐるしいスピードであちこちに飛ぶ豊富な話題、冗談なのか本気なのか、真実なのか嘘なのか、相手に判断の隙すら与えないその話力、床が揺れるほど大きな笑い声をあげたかと思えば、今夜世界が終わるかのような哀しい顔をして見せる彼に、僕は会うたびに魅了される。
彼はかつて「プエルタ・アル・メディオ」という空間を運営していた。10年ほど前だろうか、当時共演していたトルコ人ギタリストの紹介でそこを訪ねたのが最初の出会いだった。(そのトルコ人は様々な欲が強すぎるのか、あちこちで問題を起こして、ほどなくして自然と会わなくなった。)
「プエルタ・アル・メディオ」は芝居の稽古から本番、コンサートやワークショップ、ダンス・パーティーや昼寝など、なんにでも使える素晴らしい箱だったのだけど、僕はその空間が僕の笛と作り出す音が何よりも気に入っていた。そして言うまでもなく、そこに集う人たちがみなそれぞれに美しかった。
「笛ってのはギターみたいに共鳴箱がないだろ?だからこういう、楽器として鳴り響いてくれる空間がとても大切なんだよ」という僕に、「箱があったって、使える奴と使えない奴がいるだろ?この空間を使いこなしている音楽家は、俺の知る限りでは今のところお前だけだ」といつも言ってくれていた。
コロナ禍が始まる直前、彼はその「プエルタ・アル・メディオ」をあっさりと閉じて、キオスクをやり始めた。理由は「演じるってのが何なのか、街の人々を見ながらもう一度考えてみたくなったんだよ」とのことだった。そして、暇さえあればお気に入りの詩を朗読して録音し、SNSにアップする活動を始めた。
僕はいつか彼とアルバムを作りたいと思っている。

 ホルヘ・クンボさんは音楽家、それも僕と同じケーナ奏者で作曲家である。
彼こそが僕の人生を変えてしまった張本人の一人であり、ケーナ奏者としての僕にとっては父親のような存在だ。そう、僕が人生で最初に聴いたケーナ奏者の一人なのだ。
彼は”伝統楽器”ケーナに新しい翼を与えた。自由に飛んでいいんだよ、と様々な世界へ連れ出した。もちろん、反発や激しい批判もあったはずだけれども、そんなことはものともしない飄々とした態度と突き抜けた音楽性、そして子どものような好奇心で、僕たちを驚かせ続けてくれた。そういう意味では、僕は彼の後を追っているのかもしれない。敬意をもって、別のやり方で。
だからこそ、僕がまだまだ二十歳そこそこの頃にMySpaceで彼からメッセージをもらった時や、Facebookで繋がってすぐさまコメントやメッセージが届いた時には、飛び跳ねるほど嬉しかった。それからしばらく沈黙が続いたけれども。
2019年9月頃だったろうか、彼から突然メッセージが来た。
「僕たちは一緒に音楽をやらなきゃいけないと思うんだ。ヒカルとなら、皆がワォと驚くような、最高の音楽が作れると思う。来年はツアーもしたいんだが、先ずは年内にブエノスアイレスで演奏会を企画しよう。」
リハーサルで初めて対面した彼は、意外なほど親しみやすい性格と他人の話に耳を傾ける温厚な姿勢を兼ね備えていて、これまでの人生とその中でどれほど多大な影響を彼から受けたかを語る僕を、終始にこやかに受け入れてくれた。彼は「ありがとう…本当にありがとう。私の音楽がこうして旅をして、君に届き、その種がこんなに立派に実ったなんて…なんて嬉しいことだろう」と言って、潤んだ目で何度も僕の手を握りしめた。
11月30日、彼もかつて所属していたホルヘ・ミルシュベルグさん率いるグループ「ウルバンバ」で長年ケーナ奏者を務めたフィデル・ギギさんが運営するホールで、その演奏会は行われた。
超満員の観客は魔法にかけられたような様子で、しかし飛び切り集中していて、音楽を遮りたくないと拍手さえ我慢していたようだった。いい演奏会とはそういうもんだ。そして僕らはみな感動していた。
長い2人の即興演奏を終え、お互い見つめ合って、抱き合った。彼は泣いていた。僕も泣きそうだったけど必死にこらえて、精一杯の笑顔でいた。
僕の記憶が正しければ、その演奏会が彼の、ブエノスアイレスでの最後の演奏になった。
2021年10月28日、彼は僕を置いて長い長い「ツアー」に出た。
彼の訃報を誰よりも早くフィデルさんから受けた時、僕は泣いた。泣きながら彼に捧げる音楽を2曲書いた。1曲は子守唄、もう1曲はへんてこなチャカレーラ。
音は空気の振動だから…宇宙のどこかで彼も聴いているはずだ。

*写真はホルヘ・クンボさんとの演奏会で抱き合う2人。
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