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その意見は本当に自分の意見ですか?

あなたは最近「考えていますか?」
と聞かれると、そりゃ仕事に、ニュースに色々と考えています。
と答える。
しかし、情報に溢れ、何もせずともスマホやPCからどんどん情報はやってくる。無意識のうちに、そうした自分の外にある情報が、あたかも自分の意見のように錯角してしまうことがあるのではないか。
情報に触れてはいるが、浴びているだけ。
錯覚を超えて、浸食されてはいまいか。そう思いました。

何かと情報はどこでも手に入る現代、「知識として知っていること」は増えています。数年前に比べても圧倒的に増えています。
しかし、「知っている」の定義を見直した時、自分の「知っている」は本当に知っていると言えるのでしょうか?
交通事故のニュースを見て、事件の概要は知っている。
ただ、あくまでそれはニュースを通した内容であり、本当の内容は分かりません。一部だけ切り取られているかもしれないし、当事者の声が隠されているかもしれない。
こう考えると、「知っている」と言うのはとてもハードルの高いことかもしれない。

あらゆることで真実は分からない事が多いし、全てを知ることはできない。ただ、こうしたやってくる情報に対して思考停止で鵜呑みにしたり、固執した考えに捉われてそれ以外の情報には耳を貸さなかったり、本当の「知っている」状態からの乖離がどんどん進んでいっているのではないでしょうか。

一次関数の方程式、y=ax
生物の反応はこの式で成り立ちます。xという刺激を受け、yが反応として現れる。係数のaは興味や関心、考え方などです。
例えばアイドルに関する情報であれば、アイドルが好きな人はaが大きく、関心の低い人はゼロに近くなります。それによって同じ情報でも反応は変わってきます。マイナスイメージを持っている人は反応がマイナスになることもあるかもしれません。

この係数aに関して、自分が思考をしているか否かが大きく影響してきます。
この情報が溢れる現代、さらにはSNSも普及して「多数派」の意見が雪だるま式にどんどん大きくなっていく中で、一見「自分の考え」を持っているような係数aも、実は鵜呑みにしたり、思考停止で流れてきた情報をそのまま自分の意見としているaかもしれません。
こうなると、さらに同調が同調を呼び、「知っているようで知っていない」「自分があるようで空っぽ」な人間になってしまいます。

では、どうしたら情報が溢れる中で自分で思考ができるのか?

カギになるのは、実体験です。出来る限り実際に体験してみる、リアルに触れてみる事です。
五感を通じて感じたことは、紛れもなく自分のものです。(※ここで先取りして口コミやコメントを見てしまうとバイアスがかかってしまいます。)
リアルな体験をし、リアルな情報を得る。そして感じたことを言葉にしてみる。こうした身体を介した体験こそが、情報が浴びせるように降りかかってくる現代を生き抜く上で、足元をぐらつかせない基礎になります。

小さなことで言えば、今日の天気、気温、外に咲いている花、匂い、そんなところからすべてが始まっていくと考えます。


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参考文献 養老孟子著 『バカの壁』(新潮新書)

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