特別とは何か
私が飼い猫のアクアと遊んでいると、ふと自分の胸に一つの疑問が生じた。私の街には野良猫がたくさんいる。そして野良猫とアクアは同じ猫であるが、私にとってアクアは特別な猫だ。では、どうしてアクアは、街にいる他の猫と比べて、自らにとって特別な猫なのだろうか。私はこの問題について、自己を分析する方法を用いて、じっくりと考えてみることにした。
まず先に述べておきたいことがあるのだが、特別とは余りにも多様的な言葉であるので、私が今回にて考察する特別の問題は、多様なる特別性におけるほんの一部の問題にすぎない。だが今回に取り上げる特別の問題は、特別そのものを考慮するためには、大変に重要な問題であるのも事実である。私は今回の小論文にて、特別の性質が含む多様なる意味の中から、その性質を考えるにおいて特に重要である一面を、一つ明らかにしたいと考えている。
特別である存在は、その存在そのものが特別であるために、特別な存在であるのではない。その存在を特別であると意識するその者の存在が、ある一つの存在に特別性を与えているにすぎない。この特別性を生じさせるその者の意識を理解することは、特別そのものの考察において大変、重要なことである。何故ならばこの特別を認識する者の内在性に含まれた、ある物事を特別であると認識する意識そのものの存在を知ることで、複雑的な特別性の解明が、自己以外である何ものかの存在を観察することなどではなくて、それが自己分析そのものであるということが理解できるからである。
特別を認識する者とは、言うまでもなく自己のことである。ある物事に特別を見出す行為には、主観的存在である自己による何らかの内在的働きが、常に関係している。そのためにも私は自己分析そのものが、特別の問題を考慮することにおいて絶対不可欠で、その自己を分析する行為を繰り返すことで、その問題の答えまで導く方程式が完成することを強く信じるのだ。これから私は、自分と飼い猫のアクアとの間に築かれた記憶を紐解くことで、特別性の幾つかの性質を明らかにしていこうと思う。
私にとっては、どの野良猫もただの野良猫であり、それらに大きな差異を見つけることはできない。偶に綺麗な毛の野良猫を見て愛らしく思うこともあるが、そのような感情はそのとき限りのものだろう。私はこのとき、一匹の野良猫に愛らしいという感情を抱くことによって、例え一時的なものであったとしても、その猫に何らかの意識を向けたことには違いがない。その意識は一時的に、目前の猫を他の野良猫と区別して、普通ではないものと区別した。その猫はその瞬間、私にとって特別な猫となっており、猫は特別的価値を私によって与えられたことになるが、何かと何かの比較から、無理に見出すような特別は、思考問題のためだけに存在する特別にすぎない。私が今回に特別の問題として提示したいのは、そのような思考的特別の問題ではなくて、自らにとってかけがえのない存在に対する特別である。自らにとって唯一無二の存在である特別対象は、いつ何時、他の対象と区別されずとも常に特別であるはずで、そもそもそれが特別であるというために、他の対象と比較的区別による証明を要する方が不自然である。特別的対象とは、自らの内面性が反映することによって生じた、個性的存在そのもののことである。ある存在が自らにとって特別であるとき、その対象は独自的な性質を持っている。言わば特別とは、特別である存在そのもののために生じる私の感情である。私はそのような感情のことを、純粋的特別と呼ぶことにする。
純粋的特別は思考的特別と違って、何かとの比較によって生じるものではない。純粋的特別とは、何らかの対象に独自的価値を見出す、自らの感情のことである。
私が初めてアクアと出会ったのは、アクアがまだ生まれて間もないときだった。私は親とはぐれて一人さまよう子猫を見て、憐憫の情を抱き、まだ小さくて可愛い子猫を引き取りたいと思った。このときの私にとって、アクアは特別な猫だった。そのときの特別と言うものは、私の感覚を大きく動かしたという事実から生じる感情のことである。私はこのときの特別を、その性質から考慮して、感覚型特別と呼ぶ。そしてこの感覚型特別こそが、あらゆる対象に見出される特別の土台となるものである。
私は子猫を見て、感覚型特別を対象に見出した。感覚型特別には程度があるのだが、私はこの特別を感じることによって、ある欲求心を抱くことになる。それは自らに感覚型特別を感じさせた対象と、時間の共有をしたいという欲求心である。この時間共有の欲求心は、感覚型特別の程度と比例的な関係にある。そして特別の程度は自らの感覚が備えている価値観によるのだが、その価値観は常に気分によって変動している。言わばそれは、気分と常に相対的な関係にある感覚の価値観である。
私は感覚型特別による時間共有の欲求心に従って、子猫を持って帰る決意をする。しかしその欲求は叶えられるとは限らない。何故なら時間の共有には、両者の同意が必要であるからだ。もし子猫が同意してくれなければ、私は猫を家に連れて帰ることが出来ない。このような両者の同意によって特別となりえる対象のことを、私は共存的特別対象と呼ぶ。そして私が子猫を家に連れて帰ることができれば、私は子猫との感覚的な特別の関係から、時間的な特別の関係に発展させることができる。しかしそのためには両方共の合意による共存的な態度が前提となるのだ。
私が子猫を自宅に連れて帰ると、そこから私達の時間の共有が始まる。時間の共有とは、過去を共有することでもあり、過去を共有するとは、自らの思い出において、その対象と共存することであり、互いの記憶を共有することである。もちろん記憶を共有するとなると、その対象との間に、時間的価値観による感覚型特別とは異なった特別が生じる。私はこの特別を記憶型特別と呼ぶ。記憶型特別とは、感覚型特別に基づき、その対象と時間を共有することによって生じる特別のことである。私は子猫にアクアと名前を名付け、一日、一日と時を共にしていく。そして時間の共有を日々、積み重ねていくことで、時間が経つとその分、その対象との記憶が増えていく。更に記憶を顧みるというとは、そのままその対象に対する理解に繋がるので、私は共存的特別対象と時間を共にした分だけ、その対象について知ることができるのである。そしてこれらの繰り返しで、記憶型特別の程度は徐々に増していくのであるが、その程度の増加は、増減の問題ではない。継続性を持つ記憶型特別の増加は、一定の境界線を越えることで、信頼から生じる慣用的認識と変化するのだ。これはややこしい言葉であるが、一言で表現するならば、特別における慣用的認識とは、私にとって唯一無二のかけがえない存在を感じることである。私はこのときになって初めて、純粋的特別を対象に見出しているのである。この純粋的特別とは、私達の呼吸と同様なもので、無意識の内にいつも了解されている最も崇高な特別感情である。
私は純粋的特別によって、アクアをかけがえのない特別な存在であると認識する。そして純粋的特別には、無償の愛が含まれている。純粋的特別とは愛の一種でもあるのだ。この愛によってアクアは、私にとって本当に特別な存在となるのだ。
何かを特別であると思うことは、言うまでもなく人間的な感情の一種である。もし私達が愛ゆえの特別を認めるとき、それは純粋的特別の感情によるものである。そして自らがその感情をある対象に見出すまでには、様々な経緯、時間と記憶の共有が条件となる。
感覚と記憶が特別の問題を考慮するにあたって、どれ程に大切なことであるか、私達は知ることが出来た。自らが自らにおいて愛を感じられる存在は、決して何ものとも比較することができず、その存在は常に自分にとって、かけがえのない存在であって、そのような特別な存在は、自らの感覚に基づいた時間的価値観が、自らの世界において生じさせるものである。
私が考えるに人生の楽しみとは、一つでも多くの特別を世界から見出すことである。そのためにも特別の要因となるものを知ることは重要であるのだ。感覚と記憶、普段は余り意識しないこれらをじっと見つめてみることで、自らが生きる世界が、以前よりも鮮やかに見えることだろう。己の感覚を信じること、他者との時間を大切にすること、これらが人生を豊かにする鮮やかな花を、私達の生活する場所に咲かせてくれるに違いない。
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