自己認識における時間性との関係について(後編)

 私は上記において、自己を構築するものが何であるかを述べた。では自己を観察するという認識行為は、自己の後天的自己構築物を、無意識の内にも理解していることになるので、その認識行為には、時間性と言うものが大いに関係していることになるはずだ。そして自己に時間性という共通概念を加えると、自己は人生という言葉に変化するので、自己認識における自己を認識する行為とは、無意識的な人生の回顧であるとも言える。しかし人生の回顧とは、人生自体が過去と同等の意味を持つ言葉であるので、そこには膨大な時間が存在していることが理解できる。そしてまた同じことを繰り返し述べるが、やはり十日前に食べた夕食の内容も、やはり私の人生における一つの事実であるには違いないのだ。だが私達は自らの人生を語るとき、記憶によって顕在する過去しか語ることができない。これは人生を語るということが顕在的記憶に依存しているからであるが、やはり語られない過去も私の人生の一部には違いがないのである。すると私が語るときの人生とは、本来存在した純粋な人生から抽出された、人生の一部分でしかないことが理解できる。すると私達が語ることのできる人生とは、純粋人生から与えられた顕在的人生であることが分かる。そもそも人生とは、現在において外的動作と内的動作が相互に働きを持ち、現実世界と直接的な接触をした後に、完結的な状態として存在する概念であるが、その人生を顧みるためには、どうしても内的動作でのみ可能であるので、このような小難しい問題が生じてしまうのだ。要するに自己を認識するとは、自己の認識可能な部分だけの認識であると解釈することができる。
 では自己認識における観察される自己とはいったい何であるのか。これを分析するためには、時間的観点から一定の地点を準備して思考実験を行う必要がある。
 ではまず私は過去の自己をXと示すことにする。では現在の自己はX+後天的自己構築物と表すことができる。こちらはどちらも自己ではあるが、二つの対象は加算された後天的自己構築物の分だけ異なるものとなる。しかしそれまで存在していたXは両方ともに等しいものである。次に二つの対象に更なる過去を追加する。すると更なる過去はX-後天的自己構築物であると表すことが出来る。これらを並べると以下の通りだ。
 X-後天的自己構築物<X<X+後天的自己構築物
 上記の式を確認すると、この三つの観察対象は同等にXの本質を含めている。
では未来における自己と、更に更なる過去を追加するとどうなるのか。答えは簡単で、後天的自己構築物の程度が減少、もしくは増加するかのどちらかである。そうなると観察される側の自己とは次のように表すことが出来るだろう。
X+時間的影響
自己はXというどの時間的観点においても共通的なものを持ち合わせているが、このXはいったい何なのであろうか。これの解明が自己認識において重要であることは理解できるが、これは余りにも難題な問題ではないだろうか。私は頭を悩ませて一つの閃きを得た。  
Xから全ての後天的構築物を取り除く。するとXはX-全ての後天的自己構築物となる。どうやらこれでも自己というXは存在するらしい。ではこのXとは先天的自己構築物のことになるのだろうか。先天的構築物にはDNAなどの生理学的な問題が関わっているようだが、そもそも私達は自己を認識するとき、このように難解なことを視野に入れているだろうか?私達が普段から自己認識の際に認識しているものは、もっと簡単なものであるはずだ。ではそれはいったい何であるのか。その答えは遺憾ながら、読み手には物足りないものになるかもしれないが、それを覚悟の上で私は自己におけるXの謎を解明する。
私達は自己を認識するとき、時間の概念が存在しない心内領域に自己を放り込み、その自己から時間性を抹消することで、自己を自己認識不可能な対象から可能な対象へと変化させているのである。そして自己は無意識的に、自己主張の度合いが強い抽象的な記憶を寄せ集めることで、自己認識するための自己を、幾つかの記憶による印象化として創造するのである。一言で述べるならば、自己認識で認識したものとは、心的錯覚による賜物でしかない。しかし私達はその錯覚に誤りはないと信じて認識をしているので、これは錯覚ではなく自己の本来的な姿として、無意識の内に認識が完了されてしまうのである。詰まらない解明だと思う読者も多くいるだろうが、そもそも自己認識とは自己の自己による印象(記憶に強い影響を受けた)を認識する行為であるのだ。しかしその陰には、時間性というものが含まれており、自己の成り方がX+後天的構築物であるという事実は必ず存在する。しかしこれらの事実は自己認識で認識することができないので、私達が本当に自己を認識するためには、形而上学的な考察が必須とされるのだ。私達は認識に思考力を加えることで、本来あるべき正確な自己認識を知ることが出来るのだ。
 観察される側の自己については以上だ。もちろんこれは自己認識の話しであって、他者の認識とはまた異なる。この他者の認識については、また全く別の問題を論じなければならなくなるので、またの機会を見つけて考察を述べることにしたい。
 
 私は自己認識において、観察される側にある自己についてこれまで述べた。今度は観察する側の自己について述べていきたい。
 自己認識をする者とは自己であるが、やはり観察者である自己にも、時間性による影響は存在する。ではこれからは観察者としての自己と時間性との関係を分析していきたいが、これは先ほどの問題に比べると、然程、難しい問題ではない。
 観察する側の自己とは、X+後天的自己構築物である自己そのもので、観察対象である自己は、X+後天的自己構築物である自己によって認識される。では過去の観察者と現在の観察者は、時間性に伴う自己の差異が存在することによって、過去と現在との認識には、同じ自己による認識であっても、その認識自体は異なるものであると言える。これはXの本質が等しくあろうと、後天的自己構築物による影響の程度が不明である以上、二つの認識に類似性があるとは判断できない。そして過去に行われた自己認識を正確に認識することは不可能である。それは現在の自己が過去の自己とは異なるので、認識という心的行為自体が、現在的観点に依存するものであるからである。自己が過去の自己認識を正確に把握しようとしても、必ず現在的観点というものが、正確な認識を不可能としてしまうからだ。要するに認識とは時間によって、そのあるがままの内容を失ってしまうのだ。私はこれを過去における認識の破綻と呼ぶ。
 先ほどに自己と人生は、時間性において同等の意味を持つと述べた。私達は現在的観点に限定して認識を行うことが出来るが、もしそうであれば、現在と未来においては、ある一部の過去について同等の見解ができないことになる。そうなると私達は、自己の人生についての認識を、正確に語ることは不可能となってしまう。
 ここで思考実験を試みよう。私の過去である一日をX日とする。現在の私がそれを認識すれば、X+現在における自己認識となるが、未来の私がそれを認識するとなると、X+未来における自己認識となる。やはりXという本質は存在するが、自己が私の過去を時間における影響なく認識することは、やはり今や不可能となってしまうのである。要するに全ての認識対象とは、観察する側である自己の時間軸によって、常に大きな影響を受けており、その本来あった観察対象は、X+時間的影響であると言えるのだ。これは認識の性質である。全ての観察対象は認識の性質を受動することで、この数式に当てはまるのであって、この数式自体は認識する自己によるものなのだ。
私は先ほどに自己自体が時間的に変異するものとして、X+後天的自己構築物であると述べたが、認識と呼ぶ行為自体が、観察する者である自己の心的変異によって、観察対象の存在をX+時間的影響であると理解し、純粋な対象の認識を妨げてしまうのだ。そのために過去における自己による認識を、正確に把握することはできないと分かる。これは人間が心的動物であるからで、もし心が人間に存在しなければ、いつも事象に対する認識の仕方は同じであるはずだろう。しかしこのような認識の差異問題は、思考実験によってのみ露呈するわけであって、そもそも私達は現在的観点でしか、対象を観察することはできないのである。 要するに認識そのもの自体が、現在的観点における認識に限定されているのである。そのためにこのような数式は仮定的なもので、常に現在観点に限定された認識だけが自らの内に存在しているのだ。私達は過去の自己を顧みることはできるが、顧みる自己は常に現在的観点に束縛されているはずであろう。

私は観察される側の自己と観察する側の自己について分析を試みた。これらのことを踏まえると、自己認識とは、観察する側の自己が現在的観点という時間軸に基づいて、観察される側の自己から認識作用を妨害する時間性を取り除き、自己に関する幾つかの記憶を無意識の内に抽出することで、抽象的な自己の印象化を完了し、その虚像に視線を発することによって、これが認識であると錯覚する心的行為である。これは認識という行為自体が、観察される側の時間性と共存することができないためであり、認識を本来あるべき認識に戻すためには、認識とは別の領内において、認識された自己に時間性を取り戻してやり、自己の時間性における抽象的問題に対して、思考を追及して具体化する必要があるのだ。
私達は自己認識をするために日頃から複雑な手段を用いないが、自己認識を理解するための手段は必ず複雑なものとなる。そしてこの謎は、私達人間に予めから備わっている特別な能力が関係しており、私達は日頃から息を吸うように、自然と時間を体感し整理することに長けている。もし時間を自然に体感、整理することができない人間が存在すれば、その者は必ず自己の持つ時間性に溺れて、自己の内にある時間軸の混乱において、頭を掻きむしり息の根を止めてしまうことだろう。そして私達はこの時間を解き明かすためのヒントを、自己認識における時間性との関係を分析することで、完璧にではないが何かしらの知識を得ることができたのではないだろうか。時間とは常に人間を知るためのヒントとなるのだ。

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