高野素十の俳句について

 私は俳句に関して殆ど無知だが、高野素十の作風が好きで、年に何回か句集を開ける。最近、また高野素十の句を心から楽しんでいる。
 高野素十は俳句雑誌「ホトトギス」を代表する俳人である。そして高野素十は高浜虚子の唱えた客観写生を最も忠実に実践した俳人であった。客観写生とは正岡子規の写生論が基になっているらしいが、高浜虚子は客観写生について以下のような言葉を残している。
 「私は客観の景色でも主観の感情でも、単純なる叙写の内部に広ごつてゐるものでなければならぬと思ふのである。即ち句の表面は簡単な叙景叙事であるが、味へば味ふ程内部に複雑な光景なり感情なりが寓されてゐるといふやうな句がいゝと思ふのである。」
 これは言わば芸術家の目を必要とするように私は思う。客観写生とは、画家が色を見るように音楽家が音を聞くように、自然に感動する俳人の目が必要である。実に興味深いが、詩人の目だけでは良い俳句は作れず、良い俳句には自然を愛でる俳人の目が必要である。その目さえあれば、俳人の心は動く。そして心が動いたときにはもうすでに句ができている。高野素十の作品は感動と共にできる。後はそれを言葉にするだけだ。作品は言葉を必ずとも必要としない。なんせ美しさは目の前にある。それだけで充分ではないか。その事実をそのまま言葉にすると客観写生に忠実な句が出来上がる。何と単純なことであろうか。そして自然の美しさに感動している自分がいる。この運動こそが芸術ではあるまいか?そのような自然に対する敬いを高野素十の俳句から感じられるのだ。

 翅わつててんたう虫の飛びいづる
 これは高野素十の俳句であるが、俳人の目は小さな命に宿る生命の力を見逃しはしない。俳人の目は時に顕微鏡のように肉眼では難しい自然をも観察可能とするのだ。
 ひつばれる糸まつすぐや甲虫
 風吹いて蝶々迅はやく飛びにけり
 これらの俳句を鑑賞しても、どれだけ高野素十の目が緻密な神経から成っていたのかが分かる。これを可能とするのは、言うまでもなく自然に対する愛だ。生命に対する愛だ。この一つで素晴らしい俳句が出来上がる。なんせ俳句とは自然、生命の素晴らしさを感じることであるからだ。句作は感動が先立つ。感動なくして句作は出来ない。そして感動の後に俳人は素晴らしい自然を言葉に閉じ込めるのだ。それは言わば風景画と似ているのかも知れない。それを色に閉じ込めるのか、言葉に閉じ込めるかの違いである。この点で俳句は美術であるとも私は考えるのだ。
 高野素十が俳句について語っている文章がある。
 「俳句とは四季の変化によって起る吾等の感情を詠ずるものである。などと、とんでもない事を云ふ人がおります。感情を詠ずるとは、どんな事になるのか、想像もつかぬのであります。現代は科学の発達した時代で科学を究める人の態度は、素直に自然に接し、忠実に之を観察する点にあらふかと存じます。俳句も亦結論はありませぬ。それで結構です。忠実に自然を観察し写生する。それだけで宜しいかと考へます」
 これらは確かホトトギスに掲載された高野素十の俳句論であったと思うが、いかにも高野素十らしい俳句論である。高野素十は恐らくこう言っているのだ。「俳句とは自然に寄り添うことだ。そして自分に嘘をつかないことだ。」言わば俳句とは自然、生命に対して誠実にあることなのだろう。そして誠実であるとは、己の心を素直に知るということである。

 私は最近、俳句を作ってみた。句作は難しいが面白い。

 水色の雲一つない冬の空
 透き通る硝子のような冬の水
 何気ないいつもの道に楓の葉
 暗闇で握る懐炉の温かさ
 俳句を作り終えたとき、どうしてこれ程にも清々しい気持ちになれるのか。俳句とは実に不思議な力を持っている。その力とは世界と私の交わりによって生まれる愛だ。このように表現したって少しも大袈裟ではないだろう。高野素十の俳句を鑑賞すればそれが分かるはずだ。

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