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スクリーン越しの「笑」:デジタルとアナログの狭間で

私たちは、スマートフォンのスクリーンを通じて「笑」という文字で笑い合い、些細な報告をし、最近気になったニュースのリンクなんかを送り合う存在だった。その存在は、学生時代からの親友、大樹。違う道を選んだ私たちは、それでもスマートフォンの画面を通じて日常を共有していた。私はビジネス、大樹は医師として、それぞれの道で日々を送っていた。

卒業後何年経っても、私たちは画面を介して「笑」を送り合い、最近の出来事を報告し、面白い記事や写真や動画を共有した。お互いに最も送る頻度が高い返事は「笑」の1文字。それでも私たちの関係は続いていた。時折それは、自動化されたAIとのやり取りのようだった。

そして、新型コロナウィルスが日本に上陸した。緊急事態宣言から始まる在宅勤務の日々でも、私たちは相も変わらず「笑」を送り合い続けた。だが、その「笑」の頻度は次第に減っていった。そして、ある日を境に全く来なくなった。

私は大樹の医師としてのコロナ対応から来る多忙さを理解し、彼からの連絡を待ち続けた。返事がなくても度々ツボにはまったニュースを送り付けた。だが再び大樹から「笑」が来ることはなかった。知らぬ間に、大樹はコロナウィルスの冷たい数値の中に消えていった。スマートフォンの画面越しの大樹が、私の知らないところで、静かに生を終えていたのだ。

この事実を知ったとき、最初は理解ができなかった。大樹のいつもの冗談だと思っており、また彼に「なんか大樹が最近つれないって聞いたんだけど!」と送り、「笑」が来るのを待っていた。しかし返事は来なかった。大樹の実家では、彼の笑顔は写真に収められ、静止したまま私を見つめていた。大樹に「いやいや、何してるの」と送ってしまったが、やはり「笑」は返ってこなかった。この時初めて大樹からはもう「笑」が返ってくることがないことを理解した。

大樹とのやり取りは、場合によってはAIサービスに送るのと大差がない認識で連絡をしていた。だが、彼の死によって、スマホ越しのデジタルなやり取りが現実の生と死をつなぐものだという事実を思い知った。「笑」の文字を送るだけなら誰でもできる。AIでも出来る。しかしAIなら再度インストールすれば元に戻るが、人間の生命は一度失えば二度と戻らない。大樹も動画は何度も見られるし消えても復元できる、逆に言うといつ見ても全く同じである。オーガニックな反応はない。

大樹には、人間との直接のつながりの尊さを思い知らされた。スクリーン越しの交流も価値があるが、それとは違う、人間の実体性や温度感、本人のユニークさ、一瞬一瞬の価値を感じることができるのはアナログの世界だけだ。

私は以前よりも頻繁に友人たちと直接会うようになった。スクリーンを介したコミュニケーションの代わりに、直接的な会話やボディタッチを楽しんだ。それはカフェでの会話だったり、オフィスでの会話だったり、単に家で一緒に料理を作りながら話すことだったりした。何でも写真に取ったり動画に取ったりする前に、まず肉眼で目に焼き付けるようになった。

デジタルはますます我々の世界に浸透し、スクリーンが私たちの日々の生活を支配している。大樹の笑顔を思い起こすたび、人間同士の直接の繋がり、その肉感と瞬間性の尊さが鮮やかに蘇ってきた。デジタルに侵食された現代であるからこそ、直接的なアナログの交流は貴重であり、それぞれの人間が持つ生命の尊さが際立っていた。

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生命(いのち)を見つめるエッセー

結果

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