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稲垣えみ子著『アフロ記者が記者として書いてきたこと。退職したからこそ書けたこと。』

稲垣えみ子さんと言えば、最近はその節電生活などで有名だけれど、朝日新聞記者だった頃のコラムや、フリーのジャーナリストになってからの記事などを改めて読むと、やはり圧倒される。

ジャーナリストとして「伝えたい」という強い気持ちと、難しいこともシンプルに分かりやすく、かつ強く興味が惹かれるように描かれる言葉には溜息が出る。

昨日自分が書いた「書く意味」という文章を思い出すと死にたくなる。(すぐ回復するけど。)

我が家はずっと朝日新聞をとっているので、当時は稲垣さんの社説やコラムも読んできたのだけれど、私はここ最近ネットニュースばかり読んでいて、新聞もあまり読まなくなった。

やはり新聞も読もうと思ったけれど、新聞の内容もだんだん変わってきているみたいだ。

この本は、2014年から稲垣さんが退職するまでの3年間の間に、朝日新聞において綴っていたコラムと、退職してから書き下ろしたエッセイをまとめたもので、2016年に発売されている。

その書き下ろしエッセイの部分で、こんな文章がある。

新聞を読んで私はよく腹を立てているんだけど、それはあまりにも記者の思いが感じ取れない記事が氾濫しているからだ。正確で、中立で、過不足がなくて、難しい用語のは解説がついてっていう配慮はきちんと行き届いている。それでも「だから?」と突っ込みたくなるのはなぜなのか。それは「これっていったい、誰のために何のために書いてるわけ?」ってことはちっともわからないからだ。つまり、書いている人間の悩みも怒りも見えないからだ。そういう記事を読むと、もうなんというか世の中に一人ぼっちでいるような気持ちになってくる。

稲垣さんは「マス・コミュニケーション」とは、どんなに批判されても、無難に乗り切りたいという誘惑からは逃れなければいけないのではないかと書いている。

これは2年前に書かれたものなので、稲垣さんがそう感じるような流れは今はもしかして更に加速しているのかもしれないけれど、これは、個人においても「何かを伝えたい」と思って何かを発信している人にとって、大事なことなのではないかと思う。

マスコミなどの仕事ではないのに、何かを発信したいと思って発信している人ならば、当然その強い気持ちを高い温度で発信し続けていそうな気もするが、発信することが手軽であるならば、批判することも手軽である今の世の中で、本来言いたかったことを見失ってしまうことはよくあると思う。

稲垣さんは、本当に言いたいことは、その人のどうしようもない弱さやコンプレックスから出てくると、そしてその弱さこそが光だと言う。

自分の苦しみを解決するヒントを見つけたとき、そのことを必死で誰かに伝えようとするし、その文章は同じような弱さを抱えた人を救うのだと。

これも、職業としての記者でなくとも、同じようなことが言えるのではないかと思う。

今や、稲垣さんと言えば節電とか節約とかシンプルな暮らしというイメージがあるけれど、それらは、稲垣さんが記者時代に見てきたものから生まれた哲学があってのことなのだ。

私自身が望む暮らしや、今人に伝えたいと思うこと、その本気度について考えると、今はなんとぬるい暮らしをしているのかと思う。

今改めて世の中を見てみると、自分がいかに楽しく生きるかという考え方と、辛さを我慢して生きるしかないという真逆の考え方の二極化が進んでいるような気もする。

私は、坂爪圭吾さんの「まずは自分を救え」という言葉が好きだし大事だと思っているけれど、まずは自分が救えてきた気がするので、楽しく生きつつ、自分が克服できた弱さや、もっと助けが必要な社会の側面にも目を向けて、大事だと思うことはひるまず発信したい。

そう思わされる、稲垣さんの伝えたい気持ちが詰まっている本である。

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いろいろな方にインタビューをして、それをフリーマガジンにまとめて自費で発行しています。サポートをいただけたら、次回の取材とマガジン作成の費用に使わせていただきます。