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「カンガルージャーキー」ep.14

 日本に帰って来てから、退屈な時間の経過の中で、私自身の何かが変わったのを感じていた。あの星空を思い出すと、その時の感覚が蘇る。今なら何にでも立ち向かえるような気がする。単純な考えだということは分かっているけれど、楽観的に物事を見るのも悪くないかも、そう思えるようになれたのだ。それほど、あの光景と時間は私にとって大きな影響を与えるものだった。
 祐樹も同じだったのかもしれない。彼の目には、何か迷いが吹っ切れたような、物事をサラリと受け流せるような爽快感が満ちていた。
 帰国して私の体調が戻ってからというもの、祐樹と私は、ほとんど毎日のように会うようになった。真司くんがバイトで家を不在にしている時は私が彼らの家に行き、反対も然り。旅行前に一度きりだった、身体を重ねることも自然と増えていった。
 
 私は祐樹が好きだ。けれど、真司くんや他の男友達への好きとも違うし、過去の恋人に持ったような恋心とはまるで違う、もっと信頼に近いものが大半を占めている。兄弟や家族に持つような好きでもなく、同士のような、性別を超えたものの様な気がした。異性愛や同性愛という線引きをするのが馬鹿らしく思える程、私は彼を人間として愛おしいと思えた。祐樹と口づけをし、手を繋ぎ、抱き合う事で体温を分かち合うと、心の底から安心する。そこには燃え上がるような感情は無く、端的な欲情とも違った。
 世の中から見れば普通の恋人同士だと思われるし、むしろ夫婦に近い様に見られるかもしれない。けれど、恋愛や結婚など私たちにとっては想像もしない答えだ。そういったある種のゴールなど関係なかった。今この瞬間、そう言った信頼のおける相手が傍にいるという事実だけで私たちは繋がれていた。
 真司くんが私たちの関係をどう思っているのかは分からなかった。私と祐樹はお互いに恋愛の感情を持っているわけでもなかったけれど、お互いの家を行き来している事実は真司くんに言えるわけでもなかったし、前と変わらず三人で会うときも何の変化もないはずだから、特に気にも留めていないのかもしれない。
 
 祐樹の真司くんに対する眼差しに戸惑いはなくなっていた。もっと優しくて穏やかな、まるで母親のような、まぁるい温かさを持ったものに変わった。本人にとっては無意識なものかもしれないけれど、真司くんに対する態度も同じだった。以前は水風船を扱うように、慎重に言葉や態度を選んでいると見て取れることもあったが、今ではまるでそう言ったものは感じられなかった。それは、彼らが出会った時のような、双方に友情の感情でしかなかった時に似ているのかもしれない。
 だからと言って、祐樹が真司くんのことを好きだという感情は変わったわけではなかった。けれど、前よりも静かに、冷静に、祐樹が気持ちを整理しているのが分かった。

それなのに―。
それなのに、現実はそうも上手くは行かない。

 「涼子ちゃん、初デートならどこ行きたい?」
 旅行から三カ月。世間では既にクリスマスソングが溢れていた。オーストラリアで買った紺のコートを久々に着た真司くんが、嬉しそうに聞いてきた。
 それはいつものごとく一人で喫煙所にいると、授業を終えた真司くんがやって来て話し始め、すぐに投げられた言葉だった。
 私は驚いて彼の質問を聞き返した。
「実はさ、バイト先に常連で来てた女の子に、告白、されちゃって。」
彼は誇らしげに、けれど照れた顔を隠すようにタバコに火をつける。
 よくよく考えれば、大学に入ってから真司くんに二年弱も好きな人や恋人がいなかった事自体、おかしな事だった。水泳で鍛えられた身体は今でも驚く程しっかり筋肉がついていて男らしい。祐樹が横にいると祐樹に目が行ってしまいがちだが、顔だって悪くない。何よりも性格は、身体とは対照的に優しすぎるほどだ。
「知らないよ、そんなの。」
ついつい口調が強くなってしまった自分に驚く。
ごめん、口を抑えながらそう謝ると、真司くんは一時ふてくされ、なぜか笑って続けた。
「なに、祐樹と同じ反応なのな。」
そう言うと、スマホで何かを調べ始めた。
「やっぱ飯はイタリアンとかかなぁ。」
 そう、わざと嫌味を含んで呟く。真司くんは、自分だけに彼女が出来たという状況に嫉妬して、祐樹と私が不機嫌になったのだと思ったようだった。

 ー祐樹は、知っているのだ。
私には、その事実だけが突き付けられた。それから真司くんの言葉が幾つか投げかけられた気がしたが、私の耳には届かなかった。
今は何よりも、祐樹が心配で仕方がない。
「ごめん、私忘れ物してきたから戻るね。」
真司くんの返事も聞かず、私は付けたばかりのタバコをもみ消しながらそう言った。
 駐輪場へ向かう道すがら、ポケットから急いでスマホを取り出す。こういう時に限って、タッチパネルが思うように反応しない。私は一度立ち止まり、丁寧に指を動かして電話を掛けた。暫く呼び出し音が鳴るも、祐樹は出なかった。そう言えば、今日は一度も学校で見ていない。
 授業はあと一コマ残っていたけれど、そんなものはどうでも良かった。もっと他に、どうにかしなければいけない事がある。
 賭けで彼のアパートに向かう。ドアの向こうには、人気が感じられない。結果を分かっていながら、私はチャイムを鳴らした。当たり前のように返答がなかった。試しにまた電話を掛け、外気で冷えたドアにぴったりと耳を付けても、何の音もしなかった。
 今日はバイトなのだろうか。派遣の日雇いバイトをしている祐樹が、今日はどこで何のバイトをしているのか、そこまで把握していないのは至極当然なことのはずなのに、もどかしかった。
授業に戻れるわけでもないので、私は結局自分の家に帰ることにした。家に着いたら、もう一度祐樹に電話しよう。
 自転車に乗り、彼らのアパートからたかだか二十分の自分のアパートを目指す。
 オーストラリアには匹敵することは出来ないけれど、今日の空は気持ちいいほど青く、晴れていた。
こんなにいい天気の日に、祐樹は一体どんな思いで何をしているのだろう、そればかりを考えていた。
 手袋は背中のリュックに入っていたけれど、自転車を止めて取り出す気にもなれず、私の手はどんどん冷たくなった。祐樹の気持ちを考えると、そんなの大した事でもない気がして、比較できる対象でもないのに、私は自転車をこぎ続けた。
 
 アパートの駐輪場に自転車を止め、感覚のない指先を無理やり動かして鍵を掛ける。エレベーターに乗りスマホを確認したけれど、祐樹からの着信はなかった。真司くんからメッセージが入っていたが、中身を見る気にならなかった。
 部屋のある三階につくと、エレベーターのドアから私の部屋の前にうずくまる人影が見えた。
 安堵と驚きが同時に湧き上がる。
エレベーターに気づくと、祐樹は立ち上がり、無表情でこちらを見つめて右手を軽く上げた。
 ゆっくりと開くドアが煩わしい。体を押し出すように廊下に出ると、私は走って彼に抱き付いた。自転車で走って来た私の身体は冷え切っていて、祐樹の冷たさが分からなかったけれど、彼を取り巻く空気が、嫌に乾燥している気がした。
 部屋に入ってすぐに小さな浴槽にお湯を溜める。電気ケトルの電源を入れ、紅茶のティーバッグを缶から取り出す。
 祐樹とは一言も話していない。私が抱き付いたときも、彼は手を背中に回すこともなく、それからは表情も一切変わらない。安堵なんてどこに行ったのか、私はただただ怖かった。
 紅茶を淹れたカップを机に置き、湯船を見に行くと、お湯は全く溜まっていなかった。早く祐樹を入れてやりたいのに、こういうとき、信じられない程に時間は遅く過ぎる。
 マグカップに書いてある花柄の一点を見つめ、身動き一つしない祐樹に何て声を掛けるのが正解なのか分からない。私は落ち着かず、祐樹の着る部屋着を用意し、いつもは拭かないで元に戻すケトルの水滴を、今日は残さずきれいに拭く。湯船をまた見に行くと、それでも十分じゃない量のお湯しか溜まっていなくて、仕方がなく洗面所で化粧を落とす。丁寧に化粧水と乳液を顔に塗り、振り返ると、やっと半分程お湯が溜まっていた。
 急いで祐樹を呼びに行く。彼はさっきと全く変わらない姿勢と視線でそこにいた。紅茶から上る湯気は、幾分少なくなっている。
「祐樹。お風呂入りなよ。」
祐樹の反応はない。
「祐樹。風呂。あったまるよ。」
意識的に穏やかな口調でそう言っても、彼は微動だにしなかった。
 泣きたくなってきた。なんでとりあえずお風呂に、そんな安易な考えしか思い浮かばないのだろう。どんな言葉を投げかけ、どう接して彼を解放するのが良いのだろう。むしろ解放って何だろう。私は今まで彼に何をしてあげられたのだろう。そして、それは彼を少なからず助けてあげられたのだろうか。そもそも、助けるって一体、何からなのだろう。
 ぐるぐると感情が交差する。
言葉にならなくて、手に持った祐樹の着替えを投げつけた。
 「馬鹿じゃないの? 彼女くらいできるに決まってるじゃん。世界で自分だけが真司くんを好きだとでも思ってんの? そんな……そんな馬鹿なことあるわけない。これから彼女が奥さんになって、子供が出来たら父親になる。そんな当たり前のこと……・」
 残酷な言葉しか与えられない自分が嫌になる。優しくしたいけど、優しくするのが正解なのかも分からない。だからと言って怒りたいわけでもないのに。
 祐樹の目線が突然動く。私の顔を見つめる。全身に鳥肌がたったのを感じる。一体、彼の目にはどんな感情が巡っているのか全く読み取れない。
 すると、彼は不意をついたように優しく微笑んだ。
「ごめんな、涼子。ごめん。」
 笑ったままそう言うと、彼はやっと紅茶に手を伸ばす。
 一口含み、ほっと息を吐く。
「迷惑かけて、ごめん。」
「やめてよ。そんな言葉聞きたくない。迷惑なんて思ってない。やめてよ。」
「風呂、もらうよ。」
私の言葉には何の反応もないまま、祐樹は腰を上げる。
「ねぇ、ごめん。ひどい言葉を浴びせて、ごめんね。」
出来るだけ、穏やかに言う。
「いいんだ。涼子の言う事は、何一つ間違ってない。」
祐樹は私の頭に軽く手を置き、耳元でありがとう、と囁き、私が用意した部屋着を拾い上げてバスルームに向かった。
 彼の言葉や仕草は、優しいものだった。さっきまでの態度とは一転、今では焦りや不安よりも、穏やかな顔つきの彼が不気味だった。
 祐樹がお風呂に入っている間、私は次に何をすればいいのか迷っていた。今日も祐樹と身体を重ねれば、何か解決するのだろうか。いや、解決したことなんて今までも一度もなかった。その瞬間の満足感を得られるだけで、解決されることなんて一つもない。だからと言って、このまま何もなかったように接したところで、時間がどうにかしてくれるわけでもない。そんな事、分かっていたはずなのに。
 私の彼にとっての存在意義って、一体何なのだろう。私は、彼にとって結局何なのだろう。何ができるのだろう。
 考えても考えても、着地点が出てこなくて、冷蔵庫から野菜を取り出す。ミネストローネの素があったはずだ。トマトを少し足して酸味を出そう。あぁ、残っていた人参と大根を薄切りにして入れてもいいかな―。私は思考を散らすためにキッチンに立った。手持無沙汰に頭だけを動かしては狂ってしまいそうだ。
 分からないよ、祐樹。私はあなたに何が出来るの。
 鍋のスープが温まった頃、祐樹が風呂からあがる音が聞こえた。掛ける言葉は一つも出ていなかった。ただ、スープと冷凍していたご飯を温めて茶碗によそった。
「お、いい匂い。」
 彼は蒸し器に入ったかのようにホカホカな空気をまとって出て来た。すっかりいつもの調子に戻っているように見える。
「腹減ったよ、涼子。俺、お前のそういう気が使えるとこ、好きだよ。」
 違うの、祐樹。気を使っている訳ではないの。
祐樹を見つめると、祐樹はまた優しく笑う。
「俺さ。最近本当に思うんだ。真司さえいなければ、俺は涼子だけを好きになっていたと思う。頑張って交際を申し込んで、プロポーズして、家庭を築いてたんだろうな、って。まぁ、涼子がそれに応えてくれるかは分からないけどね。」
 タオルで髪をガシガシ拭きながら、彼は言った。
「あ、おい、泣くなよ。まじでプロポーズしたみたいじゃんかよ。」
冗談めかして言った祐樹の言葉は、私の真司くんへの嫉妬心を掻き立てるものでしかなかった。
「私も。祐樹、私、大好きだよ、祐樹が。真司くんが憎くて仕方ないくらい。」
そうか、私は真司くんに嫉妬していたのか。口から出たその言葉は、私にとっても予想もしないものだった。
 嫉妬心でいっぱいになった女の顔を見られたくなくて、私は鍋の方を向いた。
 背中から抱きしめられると、彼の体の温かさが伝わって来た。背中が熱い。化粧を落としておいて良かった。目の周りがまっ黒になるところだった、そう思った薄情な自分がおかしかった。
「ねぇ、涼子。」
彼の濡れた髪から雫が伝う。
「俺、何でこんなに真司が好きなのかな。」
そんなの、私に分かるはずがない。何で、あなたは、私ではなくて真司くんが好きなの。
振り返ろうとする私の顔と体を、祐樹は腕にぐっと力を入れることで妨げた。
「……っ。痛いよ、祐樹。」
「俺、逃げても、良いかな。俺、もう逃げたい。逃げたいんだ。」
 雫だと思っていたものは、本当に雫なのだろうか。そう思いながら、彼が繰り返す言葉を、私はずっと聞いていた。
「逃げたいんだ。もう。」
 
そして祐樹は、本当にいなくなった。


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