見出し画像

ビールで酔いたい、春の宵

わたしは、ビールが苦手です。
飲めないわけではないけれど、しゅわしゅわとした炭酸の風味がはじけたあと、さーっと舌の上にひろがる苦味に「おいしい!」ではなく「うっ、苦い」という気持ちのほうが、やってきてしまうのです。
そのうちおいしく感じるようになるよ、と、言われ続けて、はや十年。
ブラックコーヒーはおいしく飲めるようになったのに、ビールはいまだに苦いままです。
それでも、ビールが飲みたい、ぐびりぐびりと飲んでみたい、と感じる夜があります。
それは、プロ野球の試合のある夜です。

わたしの父は、野球とお酒が大好きでした。
仕事から帰って、すぐひとっ風呂あびると、テレビの前にあぐらをかいて、鯵や、はまちや、たこの刺身をつまみながら、茶色い瓶のビールを、手酌で飲んでいました。
チャンネルはもちろん、野球中継。
わたしは、たまに、その刺身をひときれだけもらって食べながら、泡のぷつぷつはじける音と、さあ〜、ここで打たんねよ、という、ほろ酔いのごきげんな声を聞いていました。
そんな、子どものころの何気ない日常の思い出が、野球といえばビール、というイメージになって、大人になったいまでも、わたしのなかに残っているのかもしれません。

一年間、プロ野球の試合をみていくなかで、春はいつも、特別な季節でした。
キャンプとオープン戦が終わり、いよいよ、公式戦がはじまる。あの高揚感と、どんどんあたたかくなり、日が長くなっていく季節が重なりあう瞬間は、いつだって胸が弾んで、景気よくなにかを飲み干したくなります。
去年の春は、すべての公式戦が延期となり、開幕したのは、もう初夏の六月でした。
この春、ペナントレースが開幕することは、当たり前のことではありません。
去年の春から、わたしたちひとりひとりが、ずっと今日まで続けてきたことは、マスクをつけたり、こまめに手を洗ったりと、そんなちっぽけな行動かもしれないけれど、それが自分自身を守り、身近な人を守り、見知らぬ誰かを守り、ぐるりとまわって、今年の春につながったのかもしれないと思うと、とても誇らしいような気持ちになります。

開幕の日には、桜が咲いているだろうか。
その日は、早めにひとっ風呂あびて、テレビで試合を眺めながら、あの日の父のように、ビールを飲んでみたい。
わたしには、やっぱりまだ苦いかもしれないけれど、それでも、きっと、忘れられない味になるような気がしています。


この記事が参加している募集

この記事が受賞したコンテスト

読んで下さってうれしいです。 スキ、サポート、シェアなどのリアクションをいただけると満面の笑顔になります。