見出し画像

京町家

京都には、京町家と呼ばれる町家が建ち並んでいる。

京町家とは、間口は狭く、奥行きがある日本の伝統的な木造建築の一つで、窓には結界となる京格子、犬や馬から壁を守るための犬矢来、陽のあたり具合から風水的な木材の向きまで計算された、京大工の知識と技術の結晶である。

私が京都で修行していた頃、京町家には数え切れないほどお世話になった。狭い階段、40キロを超える京間サイズの大きい畳、細長い廊下、驚くほどの部屋数、狂った寸法。大変なことが多かったけど、京町家の仕事が私を一人前の職人に成長させてくれた。本当に感謝している。

さて、その京町家だが、町家が建ち並ぶ路地を歩くと不思議な感覚に陥ることがある。まるで異世界に来たかのような異質な空間。狐の仮面を被った少年が現れ、私を赤い鳥居の向こう側へと連れて行こうとする。そんな気がしてしまう。

辻子を歩いたことがない人は言う。「それは古い家が建ち並んでいるからだよ」

確かに、家は古くなると味が出てくるものである。アマルフィやローテンブルクの街並みを見てもそう思う。

とはいえ、戦後に建てられた東京の街並みが違うのはなぜだろう。あれからもう70年以上も経っているのに、一向に味なんか出てきやしない。それどころか、ボロボロに崩れ落ち、迅速な解体が望まれている。

なぜ東京は、歴史的な街並みにならないのか。京町家が建ち並ぶのと何が違うのか。

それは空間を無視した家を建てているからだと私は思う。京都は京の町をひとつの空間とし、家を建ててきた。自分が建てたい家を建てたのではなく、気候風土に適した空間が望む家を建てたのだ。

おそらくアマルフィやローテンブルクもそうだろう(知らないけど)。

建造物でさえもバックグラウンドであり、主役はあくまで空間(「主役は空間」は尊敬する陶壁家の先生の言葉)。東京の街並みに何も感じないのは、皆んなが建てたい家を建てているからではないかと私は思っている。

とは言いつつ、私の実家も変な色の外壁を使っている。偉そうなことは何も言えないが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?