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考えるということ

ものを考えるということは、どうやってこの事業で売上を伸ばそうかとか、どうやって子供をいい大学に行かせようかとか、どうやって健康長寿・家庭円満に暮らそうかとか、そんなことを考えることではない。明日自分が死ぬとわかっていたら誰もこんなこと考えないだろう。

人生設計も社会貢献も大いに結構だが、どちらも大枠の方向性としては結局同じことで、どうやって人間のこの飽くなき欲(またの名を幸福、またの名を愛という)を満たすかということをただ追求しているに過ぎない。それが個人レベルの話か、社会レベルの話かの違いだけで、さしてやっていることに大差はない。

ものを考えるとは単純なことだ。それは問いを持つということだ。では何を問うのかと言うと、なぜ自分は人間として生まれてきたのかという自己の存在の根源そのものを問うのだ。生まれ、生きて、やがて死ぬということが普遍の真理であることにはた・・と気づいたなら、この問いは誰の胸にも痛烈に迫ってくるはずだ。あるいは幼いころ誰もが純粋に持っていたであろうこの問いに、知らず知らずに蓋をして、各々「現実」という世界に生きる大人になることを選んだのかもしれない。

人生で起こる様々な出来事は、ただその真理に目を向けよと人間に問いかけているのではないだろうか。特に近親者の死や自身が重い病にかかるなどの経験は、その本質的な問いを思い起こさせてくれるまたとない機会である。慣れ親しんだ誰かが最期に、目の前で死んでみせて「お前も死ぬぞ」と文字通り命を懸けて・・・・・教えてくれているのだ。もしくはこの肉体自身が、どこまでも鈍感な精神に、痛みというかたちで死の予感を知らせようとしているのだ。それでも「そんなのは当たり前のことだろう」と、自己の存在についてわずかな疑問も湧いてこないというなら、悲しいくらい人間としての感受性と思考力が硬直してしまっているとしか言いようがない。

いつか自分も死んでゆく。たった一度の人生なのだから、生きているうちにその人生の意味やあなただけの果たすべき目的を見つけよと言っているのではない。そんな「自分探し」のようなことにいくら時間を費やしても、はっきり言って答えなど出ない。仮に答えらしきものが見つかったとしても、それは所詮、自己実現という小さな枠に収まる程度のものだろう。自己を主体として人生に意味を問うのではなく、人生そのものが物心ついた時から、自己自身に「お前は何者だ?」と常に問いかけていたのだ。要するに話が逆なのだ。ここを履き違えてはなるまい。私はつまり、この人生という意識的に無限を感じることができ、それでいて有限であり、かつ稀有な舞台の上でたったひとり問われているのだ。全宇宙に、360度ありとあらゆる方向から「わたし」という存在を問われていると言ってもいいだろう。その大いなる問いを前に人生というものを捉えたら、各々母体の扉からこの不思議な世界に生まれ出で、人間としての命を与えられた時間は極めて短い。

誰かが言うだろう。自己の存在の根源なんて考えても仕方ない、何の意味もない、時間の無駄。そんなことより私には現実的に・・・・考えなければならないもっと大事なことが山ほどある。本来ひとつであるはずの生死の「生」の側しか観ようとしないそのような姿勢を一生貫いていきたいならそれも良いだろう。しかしせっかく人間として生まれてきて、考える頭と問いを持ち得る感受性を授かったにも関わらず、そうやってただ欲に迷い、自己に迷い、人生を経験の蓄積という、あるのかないのかわからないようなもので誤魔化し続けていった先に一体何があるというのか。

最期の時、「この人生、結局何だったんだ?」という巨大な疑問符を背負って死んでいくことになりかねない。もしそうなったとしたら、これほど空しいことはない。自分が人生で築いてきたものに対する達成感や満足感と共に、穏やかに死んでいけることを漠然と思い描いて何となく生きている人もあるかもしれないが、それほど死は甘くはないだろう。生きているときに大切だと思い込んでいた・・・・・・・ものすべてを剥ぎ取られ、それら一切が何の頼りにもならないものだったことを容赦なく突きつけられることが、つまり死ぬということなのだから。その圧倒的な無常を遺されたものが深く心に受け止めなければ、先んじて旅立っていったものたちは何のために命を懸けて死んでいったというのか。何のためにこの私に死を見せてくれたというのか。

自分の人生が水に書いた名前のように跡形もなく消えていく。「それならそれで構わない、人生なんて結局そんなもんだ」という人もいるだろう。その人はクールで強い人だと思う。ある意味での諦めなのか、思考停止なのか、それはわからない。いずれにしろ私はそんなに強くは生きられない。脆弱な精神しか持たない私は、自分の人生を自分で導き出した解釈に無理やり落着させるほどの豪胆さもなければ、疑り深い自分自身を納得させられるだけの強い信念も持ち合わせてはいない。私はただ、もう諦めるしかないというような暗い心で人生を終わりたくはないのだ。

結局こういう問題に対しては、科学も、道徳も、およそ教養と呼ばれる類の一切は何ひとつ役に立たないだろう。唯一希望があるとしたら、各々が宗教の扉を自らの手で叩いていくことしかないだろう。幸せに生きることも、自己研鑽に励むことも、多くの人にとっては紛れもなく人生の醍醐味であり、何ら否定するものではない。しかし、現実と仮想の境界線すら薄れつつある危うい世界に生まれ合わせた我々は、今一度本当の意味で「考える」ということを真剣に考えてみてる必要があるのではないだろうか。


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