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もしもあなたが「死」を生きることができるとしたら

 当然のことですが、人間は生まれた時から死ぬまでが人生であり、その間の状態を我々は「生」と呼んでいます。長い生もあれば、短い生もあり、幸福に満ちた生もあれば、不幸に嘆く生もあるでしょう。生とは文字通り、私たち一人ひとりが「生きている」ということです。「命」と言い換えてもいいでしょう。そして、我々が生きるこの舞台は「世界」と呼ばれています。今日はこの「生」と「世界」について書いてみようと思います。

 言うまでもありませんが、今、我々は生きています。では、我々の今現在の状態である「生」を挟んで、その前後の状態、つまり生まれる前と死んだあとはどういう状態なのでしょうか。仮にその状態を「死」と呼ぶとしましょう。我々は死からやってきて、ほんの一瞬「生」の世界に身を置いて、また死の世界に帰ってゆく。そんな存在なのでしょうか。私の好きな詩人、茨木のり子さんの「さくら」という詩の最後にこんな言葉があります。

さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と

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 私はこの「死こそ常態」という一言に衝撃を受けました。そして考えてみました。今現在生きている人の総数を(A)とし、これまでに生きてすでに死んでしまった人の総数を(B)とします。当たり前ですが、その数を比較すると圧倒的に(B)グループのほうが多数となります。そして、現在一時的に(A)グループに属している我々もいずれは必ず(B)グループの仲間入りを果たすわけです。現在(B)グループに属している人たちも一度は(A)グループに属していたはずであり、(B)グループは全員が元(A)グループだったということになります。そう考えると確かに「死こそ常態」と表現した彼女の言葉が理解できるような気がします。

 この世界を、生まれる前と死んだあとも含めた、より広い意味で「世界」と捉えた場合、限りなく100%に近い人たちが(B)グループ=「死」の世界に属していることになります。今、生きている人はほんの一握りです。例えるならば、この地球上で存在するすべての石、その中のダイヤモンドの数ほどかも知れません。つまり「死」の側こそが常態であり、この世界の大部分を占めているものである、そう考えることもできるということです。そして、もし仮にそうだとしても、我々は生きている間にその確証を得ることは絶対にできません。我々が何の疑いもなく「世界」だと思って生きている「この世界」とは、実は大海から柄杓で掬い上げられた一杯の海水のようなものでしかなく、死んだときに「あー、なるほどこういうことだったのかー」と初めて本当の世界が大海だったと知る、なんてことがあるのかも知れません。もしそうだったとしたら、面白いですよね。私はまず、その世界という大海を、す~いす~いと泳いでみたいです。もちろん肉体を使った泳ぎ方とは全く違った方法で(私、かなづちなんです…)。

 どこまでいっても生きている我々が認識できることには限界があり、そこから先の世界は想像するしかありません。しかし、ひとつ明確に言えることは、我々が生きている「この世界」に滞在できる時間は実に短いということです。生まれる前と死んだあとは、宇宙がどこまでも広がっていくのと同じように、永遠に近い時間と捉えることもできます。しかし、命を与えられた人間の時間というのは至って現実的であり、よく生きても100年、日本人ならば平均的には70~80年といったところでしょう。

 永遠という時間軸で観たら、一人の人間の一生などマッチ棒の炎のようなものです。詩人はそれを「蜃気楼」と表現しました。何とも美しいイメージですね。いずれにしても、とてつもなく短く、あっという間に過ぎ去ってしまうもの、それが人間の命の実相なのです。その限られた時間の中で経験できることや感じられること、出逢い、幸も不幸も、喜びも悲しみも、そのひとつひとつが一度きりであり、二度と起こり得ないことなのです。だからこそ、生は「はかなき」ものでも、「むなしき」ものでもなく、どこまでも「いとしき」蜃気楼なのです。彼女はこの詩を通して、我々が生きる「命の姿」をそっと教えてくれているのです。

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 人類が宇宙に飛び出したことで、初めて地球が青く丸い惑星であることをはっきりと認識できたように、私たちが生きるこの世界を理解するためには、より広い視野で世界を捉える必要があるでしょう。永遠の中から突如出現し、気が付けば自分という生を生きている。そして、時が来ればまた永遠に帰ってゆく。「死」とは帰還…。人はいつか永遠という大海に帰ってゆき、肉体とともに生きる生とは全く違ったあり方で「生きている」のかも知れません。そう考えると、死とは決して忌み嫌うべきものでも、ただただ悲しいだけの別離でもなく、誰もが必ずたどり着く新しい世界=本当の世界への入り口なのかも知れません。

 この先も穏やかに生きることができれば、風がそっと季節を運んでくるように、私もいつかその入り口に立っていることでしょう。その時が来るまで、私はこの与えられた命を精一杯燃やし続けて生きてゆきたいと思います。死こそ常態、生はいとしき蜃気楼。その言葉を最期の瞬間まで、いつまでも、この胸に抱きながら…。


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