生まれる前から知っていた
見知らぬ人が声をかける。
「あなたは誰?」
自分が誰だったか覚えていたはずなのに、
今はただ、教えてもらった名前を繰り返しつぶやくだけ。
目の前を行き交う人々は、別の次元で生きているかのようだ。
きっと、少し前までは、ヒロシもこの世界の先頭を走っていたに違いない。
気がつけば、次々とヒロシは追い越され、みんな去って行った。
どうしてだろう。
ヒロシの脳は、ある日考えることをやめた。
誰かが微笑みかけてくれれば、ヒロシは笑う。
誰かが歌ってくれれば、ヒロシは耳を傾ける。
みんながやさしくしてくれるけれど、ヒロシの心は晴れない。
これからどうなるの?
何をしたらいいの?
とらえどころのない不安に押しつぶされそうになりながら、
現実を見ないようにして眠りにつく。
ある日、ヒロシの名前を呼ぶ声が、こだまのごとく、
そこらじゅうに響き渡っていることに気づいた。
こんなに名前を呼ばれたのは、いつ以来だろう。
ゆっくりと目を開けると、目の前には、懐かしい人々の顔、顔、顔。
「ああ、よかった。
私の大好きだった人たちは、ここにいたんだね。」
手を伸ばしたつもりが、ヒロシには、その手が見えない。
競争は終わったんだ。
そう悟ったとき、ヒロシの体は宙に浮き、夜空に吸い込まれて行った。
小さな青い星は地球だった。
生まれる前から、それを知っていたことを、
ヒロシは天に昇る瞬間思い出した。
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