【創作小説】永遠の終末(56)
(56)
疲れ切って、マンションに帰った夜、理奈からメールが届いた。
「今夜、午後7時に『スワン』でお待ちします。 理奈」だった。
どうして、今日の夜なんだと訝しがった。
「今、事件が山場を迎えています。次の休みではいけませんか?」と返信すると、「急ぎなので申し訳ありません。10分で結構です。 理奈」と返って来た。
忙しい時に限って、急な用事が入ったりするのが世の常だし、理奈がそう言うのだから、大事な用件があるに違いないと翔龍は思った。
疲れた足を引きずりながら、指定の時刻にスワンに出向いた。
その理由が後の翔龍の心をひどく痛めることになった。
「お忙しいのに、今日も無理を言ってすみません」に続いて、「実は、金曜日の夜、松永さんとお別れした後、停留所でバスを待っていたら、お話していた傘の男性に偶然お会いしたんです」
――相合傘の男と再会した?
話の途中で、翔龍は嫉妬を覚えた。
偶然に出会って、恋に堕ちるというストーリーをよく耳にする。理奈もその筋道に足を踏み入れたのだろうか。
自分の奥さんになる人は、「真知子」だと自分に言い聞かせても、不思議なことに、嫉妬を抑えることが出来なかった。
「その時、お酒に誘われて……」
「行ったんですか?」
「いえ。2度しかお会いしてないのに、お酒は、どうも……」
「じゃあ、断ったんですか?」
「はい」
翔龍は、胸を撫で下ろした。
「でも、それでは淋しいと言われて、今夜7時半に食事を誘われました」
「食事? OKしたんですか?」
「お返事は、していません。パルコの前で待っているということだったので……、私が、そこに行けばOKということにしました」
「で、行くんですか?」
「ですから、……これから、松永さんが、私を食事に誘ってくださるなら、行きません」
告白が、何の前触れもなく訪れて、涙が飛び出そうなくらい嬉しい瞬間になった。
――だから、今夜で、しかも7時だったんだ。
けれども、どんなに嬉しくても、「真知子」が待ったをかけてくる。
おまけに「真知子」には、占い師が言った「未来の奥さんになる人、これからもずっと1人ぽっちで過ごすことになるね」がセットで付いている。
――どちらを選ぶ?
苦渋の選択というのが本音だが、今の翔龍に選択肢など存在しない。表現は適切でないが、理奈を捨てる努力をしなければならない。真知子は、おそらく翔龍の命の恩人でもあるのだ。
翔龍は、理奈を諦める口実を探すために質問した。
「その男、背が高いですか?」
「はい」
「ハンサムですか?」
「多分」
「健康で逞しいですか?」
「そのように見えました」
「高収入ですか?」
「高価な、センスの良い服を着ていました」
――どうして澱みなく返事ができるんだ?
理奈の条件を全て満たしている。彼女が迷う理由などさらさらない。
翔龍は、これらの話は自分を諦めさせるための理奈の一芝居だと考えた。
――多分、自分は、理奈の誘いを断ることになる。理奈も自分も胸が張り裂けるくらい苦しい気持ちになる。乗り越えるまでどれくらいの期間がかかるのか分からない。けれども、その苦しさを乗り切った後に「真知子」が現れる。自分は、神に試されているんだ。
そう思った。
「食事に誘っていただけますか?」と繰り返す理奈の眼差しは真剣そのものだった。
だが、どうしても「真知子」が、頭から離れることはなかった。
翔龍は、「……お断りします」と言った。
落胆の色が理奈の顔を覆い尽くした。
「私、……松永さんの、……気に障るようなことを言ったんでしょうか?」
理奈が泣きそうな顔をした。
――言ったよ。たった今、あの男のいいとこばかり喋ったじゃあないか。
自分に言い聞かせた。そしたら、翔龍も泣きたい気持ちになった。
――本当は、違う。
「そうじゃないんです」
「じゃあ、どうして……?」
――僕が結婚する女性は、真知子さんなんです。……言えるわけないじゃないか。
「……」
「私は、松永さんのタイプではなかったんですね?」
「いや、……」
これ以上、話せることはない。
理奈は、目にいっぱいの涙を溜めて、ハンカチを手にして、テーブルの端に置いてあった伝票を取って、出口に向かった。
翔龍は、後ろ姿を見送ることしかできなかった。
――最後は、理奈さんにお金を払わせてしまった……か。
彼女ともう会うことはないだろうと切なくなった。
淋しさと同時に未練がいっぱい湧き出て来て、彼女を幸せにする男を最後に見ておきたいと思った。
理奈が店を出て数分後に、翔龍も店を出た。
パルコの前だと言っていた。
金座街を過ぎて、左に斜めに折れて、――走った。
多くの人ごみのずっと向こうに理奈の後ろ姿が小さく見えた。途端に涙が翔龍の頬を伝った。
――一体、オレは、何をしてるんだ?
タイムマシンがない限り、過ぎ去った過去に戻ることは出来ない。
理奈を捕まえて、あれは違ってたんですと言い直しても、自分が惨めになるだけだ。
――後戻りは、できないんだ。お別れだ。
理奈が手を振っていた。その先に、頭髪の先だけが茶髪で、前髪を垂らして、サングラスをかけた背が高い男の姿があった。黒色のレザーの上着が金持ちのお坊ちゃまを連想させた。
――あいつだ。
男は、理奈に近寄り、右腕で理奈の肩を抱いた。力強く自分の胸に引き寄せ、唇がくっ付くくらい顔を近づけて、何か囁いていた。
何にも表現できないほど、悔しかった。
理奈を振った翔龍が、振られた淋しさに包まれた。
理奈は、これから豪華な食事をして、流川のスタンドバーでカクテルを飲んで――。
翔龍は、帰る途中、コンビニで缶チューハイを10缶買った。
これが本当の失恋なんだと悟った。
やっとの思いで家に帰り着き、ソファに顔を埋めて、切なさのあまり「ウォー、ウォー」と何度も叫んだ。
普段アルコールを飲まない人間が、止まることなく、次から次へとチューハイの缶を口に運んだ。『浴びるほど』という表現は、この時の翔龍を指すのだろう。
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