【エッセイ】「殿様の教室」: 小学校6年生の教室の「異常事態」に、当時の私は気づけませんでした
はじめに
私が小学校4年生または5年生のとき、ある男性教諭が市街地にある小学校から赴任してきました。
前年度まで高崎駅の近くにある小学校に勤めていたらしく、着任直後の全校生徒への挨拶で「この間までいた小学校はビルに囲まれていて、この小学校は空が広くて感動しています!」と述べていました。どこに行くにも親の車を必要とする郊外の暮らしが嫌だった私は「嫌味」にしか感じられませんでした。
その教諭は担任するクラスを持たず、算数のきめ細かな指導と、児童会(中学校・高校における「生徒会」に該当)の担当もしていました。私は小学校5年生の前期(2学期制の1学期)に学級委員をしていたので、この教諭に出会ったのは児童会でした。
また、実質的な「IT担当」として、コンピュータ教室の管理や学校だよりの作成も担っていました。
その教諭は車好きで、私も幼少期から車が好きでしたから、事あるごとに雑談で車の話をしていました。教諭の愛車は三菱パジェロ(2代目)で、その4ドアの白いロングボディが駐車場に鎮座していました。
小学校6年生の4月のクラス替えで新たに担任になったのはこの教諭でした。同じものが好きで、前年度によく雑談していた経験から、当時は喜んでいました。
しかし、いまになって思うと、この担任教諭はかなり変わった人でした。
変質者と過ごした小学校6年生の1年間
「殿様」を自称して児童を「無礼者!」と怒鳴る
この担任教諭は自らを「との(殿)」と呼ばせていました。
「殿(との)」は一般に貴人や君主への尊称です。言うまでもなく、この担任教諭は「殿」もしくは「(お)殿様」と呼ばれるような身分の人物(たとえば皇族)ではありません。
また、児童が何か粗相をすると「無礼者!」と怒鳴り散らしていました。いったい何様のつもりだったのでしょうか。いや、本当に殿様のつもりだったのでしょう。
もっとも、公立小学校の教諭は誤解を恐れずに言えば「儲ける努力や工夫をせずとも生き残れる」職業です。
同じ「公務員」でも、たとえば国家公務員総合職は出世レースがあり、一定の年齢で昇進できなかったら(同期が事務次官や局長といった幹部になったら)退職して、外郭団体や関連企業の役員や管理職に天下り・再就職する慣例があります。だから、「儲ける」努力や工夫かはさておき、出世のために努力や工夫をしなければ(実質的に)クビを切られてしまい、定年まで勤め上げられません。
でも、公立小学校の教諭は校長や教頭にならなくとも、定年まで勤務できます。全員が出世する必要はなく、敢えて「現場に留まる」選択もできます。そう考えると、公立小学校の教諭は「殿様商売」と言えるかもしれません。そういう意味で、「殿」は無意識のうちに自画像を反映した呼称と言えるでしょう。
もっとも、この担任教諭を私は「との」と呼ばず、「先生」と呼んでいました。必ずしも「との」と呼ばなくても怒られることはありませんでした。しかし、いま考えると、およそ「先生」とすら呼びたくない人格の持ち主でした。
(よく考えてみると、「先生」と尊称したくない人物でも、児童や生徒は「先生」と敬わなくちゃいけないのは不思議なものです。)
休み時間と放課後は女子児童を「膝の上」に乗せてデレデレ
この担任教諭は休み時間や放課後になると、クラスで「スクールカースト」の高い女子児童を膝の上に乗せて「可愛がって」いました。さすがに女子児童を呼び寄せていたわけではなく、女子児童が自ら担任教諭の膝の上に乗っていたものの、その担任教諭の表情は往々にしてデレデレとしていました。
短パンで剥き出しになった担任教諭の膝の上で女子児童は楽しそうにしており、女子児童は必ずしも嫌がっていたように見えませんでした。しかし、教諭と児童の圧倒的な力関係を考えると、もし嫌だとしても、その感情を児童が顔に浮かべたり、まして口に出したりするのは憚られます。特に、その女子児童は県立中央中等教育学校の受験を控えており、小学校から提出される書類が合否に影響し得ることを考えると、なおさらです。
よって、もし女子児童の表情は楽しんでいるように見えても、実は嫌だったり、教諭の優位性に忖度していたり、もしくは後から思い出して傷ついたりする可能性も否定できません。身体の接触を伴うコミュニケーションに、教諭が慎重にならなければならないのは当然です。
すると、いまから考えると、この担任教諭の行動は正直に述べて「気持ち悪い」と言わざるを得ません。特に、いまは上司が部下の「肩を叩く」だけで(と言うと、語弊があるかもしれませんが)「セクシャルハラスメント」に該当し得る時代です。
一般に小学校の教諭は児童との接触が必然的に多くならざるを得ない事情を差し引いても、また、この担任教諭を女子児童が信頼して膝の上に乗っているのを勘案しても、この担任教諭の行動はやはり「異常」です。
それでも、たとえば落ち込んでいる児童を励ますために肩や背中を叩くとか、良い行いをした児童を褒めるために頭を撫でるといった接触なら、まだ情状酌量の余地があるかもしれません。手段は良くないものの、目的は理解できます。しかし、どう考えても児童を膝の上に乗せてデレデレとした表情を浮かべる目的は「正当」なものとは言えません。
もしくは、体育の授業や登下校の交通安全指導で事故を防ぐため児童の体を掴むとか、授業中に倒れてしまった児童を保健室まで担いで連れて行くといった接触も、言わば「緊急避難」のような措置ですから、「やむを得ない」と言えます。しかし、児童を膝の上に乗せなかったからといって児童の安全や健康に影響が生じるわけでもありませんから、この担任教諭の振る舞いは言うまでもなく「緊急避難」として正当化できません。
あるいは、体育の授業で、教諭も参加した球技や鬼ごっこをしていて、その一環で児童の身体に触れるなら、多くの場合(意図的に胸や股間を触ったとかでもなければ)「不可抗力」でしょう。実際に、この担任教諭は学生時代にラグビーをしていた経験から、体育の授業で「タグラグビー」をしていました。ボールや相手チームを追いかけるあまり、ぶつかってしまうのは「不注意」かもしれませんが、ある程度は「仕方ない」と言えます。または、児童が休み時間に、たとえば「先生、一緒にドッジボールしようよ!」と腕や服を引っ張ってきたのも、児童が自発的に接触してきたものだし、また性的なものでもありませんから、やむを得ないでしょう。でも、たとえば休み時間や放課後に考えごとやうたた寝しているときに児童が勝手に乗ってきたとかでもない限り、児童を膝の上に乗せるのは「不可抗力」ではありません。
授業での「八つ当たり」と「えこひいき」
振り返ると、この担任教諭は授業での「八つ当たり」と「えこひいき」の激しい人物でした。
機嫌が悪いと些細なことで激昂して、児童たちに「八つ当たり」していました。たとえば児童たちの行動が気に入らないと、給食の時間に「このあとの昼休みには話し掛けるな!」と宣言して、昼休みに教室の教卓に佇みながら、あからさまにムスッとした無期限な態度を示しながら私物のノートPCで仕事していることもありました。いわゆる「フキハラ(不機嫌ハラスメント)」です。
また、別の日には臍を曲げて、算数の教科指導助手の教諭に「こんな奴らなんて、相手にする価値ないですよ」と児童たちの人格を否定するような言動を言い放つときもありました。
(教科指導助手の教諭は担任教諭の機嫌を察して、些か困惑した表情を浮かべながら「あ、はい……」と応じていました。)
さらに、社会科のテストの結果に腹を立てて、100点満点を取った児童を除くクラスの全員に、わざわざ1コマを割いて延々と説教をするときもありました。その次回のテストは殺伐としており、クラス内の雰囲気が異様にピリピリとしていました。これも教室から心理的安全性を奪う「モラルハラスメント」と言わざるを得ません。
よって、児童たちは「楽しい学校生活はもちろん、安心して毎日を過ごすには担任教諭の機嫌を伺い、逆鱗に触れないようにしなければならない」と内心ビクビクしながら過ごさざるを得ませんでした。いま考えると「マインドコントロール」の一種です。また、クラス内で児童が相互に監視をしたり、牽制をしたりと、健全な人間関係の構築も難しくしていました。
次に、この担任教諭は「スクールカースト」の高い児童や自分に従順な児童には人当たりが良く、そうでない児童には公然と「話をしない」と宣言するときもありました。つまり、「えこひいき」によって、心理的安全性を持って担任教諭とコミュニケーションできる児童たちと、担任教諭と緊張してコミュニケーションせざるを得ない児童たちにクラスが分かれていました。これでは授業内容で疑問点や不明点があっても教諭に質問できる児童と、そうでない児童が生じ、後者の学習権が妨げられかねません。
さらに、同級生からの「告げ口」に基づき、私の言い分や反論も聞かずに、給食の時間に延々とクラスの面前で説教されたこともありました。担任教諭が検察官と裁判官を兼任して、弁護士が不在の「魔女裁判」と「公開処刑」です。
なお、厚生労働省のWebサイトによると、「人格を否定するような言動を行う」とか「他の労働者の前で、大声で威圧的な叱責を行う」といった精神的な攻撃は「パワーハラスメント」に該当するとされています。学校ではなく職場だったら、明らかにコンプライアンスに抵触します。
掃除の雑談で意味不明な「クビ宣告」
この「魔女裁判」と「公開処刑」で最も理不尽は「掃除の雑談を理由にしたクビ宣告」でした。
ある日、昼休みに他の男子児童と一緒に呼び出されて、この担任教諭に「掃除しながら雑談していたな」と問い詰められました。同じ生活班の女子児童が密告したそう。
私は掃除しながら雑談して何が悪いのか分からず、「他の人たちもやっている」と反論したら、「馬鹿者!」と怒鳴り散らされました。いまでも納得できません。
掃除に限らず何にしても、作業しながら雑談する、もしくは雑談しながら作業することはあり得ます。
この担任教諭は「雑談していたら真剣に掃除できない」と力説していたものの、雑談の有無に限らず真剣にやる人は真剣にやるし、真剣にやらない人はやらないでしょう。たとえば乗客と雑談するタクシー運転手は「真剣に運転していない」とでもいうのでしょうか?もしくは、この担任教諭は友人たちとドライブしているときに、助手席や後部座席の同乗者と「真剣に運転できない」と、一切「余計な雑談をしない」のでしょうか?
よって、「雑談の有無」を以て外形的に「真剣な態度」を推し量るのは不可能です。それに、そんなに真剣に掃除させて「綺麗な校舎」を保ちたいなら、まだ中学生にも満たない小学生に一言も雑談がない掃除を強要するのではなく、業者に発注するのが合理的です。それに、お給料を貰いながら掃除している清掃員だって、作業しながら雑談している光景を見掛けることは多々あります。この清掃員たちは「真剣に仕事をしていない」のでしょうか?
私たちはこの担任教諭に「お前たちは掃除をクビだ!」と宣告され、他の人たちが「黙々と」真剣に掃除するのを見学するように命じられました。しかし、見学させられた私が見たのは「私たちと同じように雑談しながら掃除していた同級生たち」でした。
その後、私たちはクラスの面前で横一列になって謝罪させられたものの、いったい何が悪かったのか、いまでも理解できません。
でも、授業は分かりやすく、知的好奇心にも応えてくれた
そうは言っても、この担任教諭の授業は非常に研究されていて、分かりやすく学べたのも、また事実です。
特に印象的なのは社会科の授業でした。板書は「マインドマップ」を活用しており、書き写したノートを見返すだけで「連想ゲーム」のように復習できるように設計されていました。また、小話や雑談も交えたトークで、授業にストーリー性を持たせていました。幼少期から社会科が好きだった私は授業で頻繁に(他の同級生からは疎まれながらも)質問していたし、私の知的好奇心にこの担任教諭も向き合ってくれました。おかげで社会科の成績はクラスでトップだったし、卒業を直前に控えた3月にクラス全員の前で表彰もされました。
ついでに言うと、マインドマップを活用してメモやノートを取ったり、思考を整理したりする訓練を、幼少期に反復して(週に数回ある社会科の授業のたびに)積んだのは良い経験になりました。その後も、社会科目で連想ゲームのようにしたり、自分で調べた予備知識と絡めてストーリー性を持たせたりして覚える癖が付きました。
また、この担任教諭が私の知的好奇心に向き合ってくれたのも、私が分からないことや気になることを自分で調べたり、詳しそうな人に臆することなく尋ねたりする原体験にもなりました。
その後の人生においても、社会科目(特に公民)は得意科目でした。たとえば大学受験でも、私は政治経済の高い偏差値をキープし続け、センター試験でも9割を超えただけでなく、受験勉強や試験当日の自信にも繋がりました。
だから、この担任教諭は悪い側面ばかりの人物というわけでもありません。いま考えると、この担任教諭から学んだものや得られたものも多くありました。この点は歴然たる事実として認めなければなりません。たとえ担任教諭の言動に批判されるべき点が多くあるとしても、です。
まだトラブルが続いた驚くべき後日談
このnote記事を執筆するに当たって、この担任教諭の名前をGoogleで検索してみたところ、この担任教諭は2022年3月31日を以て退職していました。逆に言えば、昨年度まで現役の教諭でした。
実は、私が中学校に進学してから、学校内で「この元担任教諭が私たちの同級生の妹のお尻を触って、大問題になった」と耳にしました。いま考えると不謹慎ながら、その同級生に真偽を尋ねると、どうやら本当のようでした。
また、小学校5年生に林間学校で訪れる群馬県立北毛青少年自然の家では職員とトラブルを起こして、小学校単位で「出入り禁止」になったとも聞きました。これだけトラブルを重ねていると、この教諭が昨年度末まで小学校の教諭を続けられていた事実に、ただ驚くばかりです。
ただし、補足すると、この北毛青少年自然の家は職員たちが妙に皿洗いに厳しく、この元担任教諭が「さすがにおかしいんじゃないか」と抗議したのを発端にトラブルに発展したとも耳にします。確かに、私が小学校5年生のときも、北毛青少年自然の家の職員は皿洗いに妙な拘りが強く、「テレビドラマに出てくる面倒な舅姑」を彷彿とさせました。すると、この件に関してはこの元担任教諭の肩を持ちたいのも、また正直な本音です。
また、運動会で披露するマーチングに向けて、やたらヒステリックな音楽教諭が午後の授業の時限を大幅に超過してまで、練習を何度も「もう1回やりましょう」と繰り返し強行したことがありました。ようやく音楽教諭の気が済んで解放されたあと、この担任教諭(当時)は「よく頑張りました。私がみんなの立場だったらキレていました。」と述べており、この担任教諭の感覚が他の教諭よりも「まとも」に感じられた瞬間もありました。
(ただし、北毛青少年自然の家の職員やこの音楽教諭が、この元担任教諭よりも遙かに異常なだけだった=たまたま相対的に担任教諭をまともに感じられただけの可能性もあります。)
さらに、この担任教諭(当時)が冬休みの直前に板書していた住所を思い出して(さすがに番地までは覚えていなかったので、ある調査ツールを使って調べて)、Google検索してみました。
ストリートビューによると、愛車をパジェロから三菱RVRに乗り換えたようです。ストリートビューには小型車も映っていたので、おそらく家族と同居なさっているのでしょう。
この元担任教諭は父親を「父上」、母親を「母上」と呼び、その家族観を児童に押し付けるような発言も目立ちました。
ある日、この担任教諭は授業で「育てて貰った親を施設に入れるなんて薄情だ」「自分で介護するべき」と言い放っていました。
しかし、地元と都内では選べる仕事の幅も、得られる年収も段違いです。たとえば中央省庁や総合商社、外資系投資銀行、戦略コンサルティングファームといった職場は地元にないし、地元の県庁・市役所や地方銀行の給与水準は都内の大手企業よりも格段に下がります。親の介護のため地元に残ったり、もしくは都内から地元に戻ったりしたら、必然的に都内でのキャリアを諦めることになります。親の介護は自分の職業やキャリア形成よりも優先するべきなのか、と子ども心に思わされました。
確かに教諭は「場所に縛られずに働きやすい(地方にも需要が存在し続ける)仕事」だし、その感覚から「地元に残って、もしくは都会から戻っても働き続けられる」との発想になるのも無理はありません。
しかし、そういう職業を全員が希望しているわけではありません。「自分の意思で地方に生まれた」人はおらず、たまたま地方に生まれてしまった人が都会にしかない仕事を希望することもあります。「子どもが親の介護を見るのは当然」との価値観を、児童に押し付ける発言には強烈な違和感を禁じ得ませんでした。いったいなぜ、親の介護まで小学校の教諭に指図されなければならないのでしょうか。
せっかく受験勉強や就職活動を頑張っても、親の介護のため職業やキャリアを諦めて地元に戻らなくちゃいけないのかと、当時から不思議でした。それなら、地域間の教育資源や就業機会の格差に鑑みると、子どもは親に「地方で産むな」と言わざるを得ません。しかも、わざわざ介護のため離職しても、補償や手当はありません。いったい自分の面倒は誰が見るというのか。
こんな相手でも、当時は「先生」と呼んで慕っていました
子どもはなかなか違和感を言い出せない・不祥事に気づけない
でも、子どもは教諭の言動に違和感を感じても、反論できるとは限りません。
先述のとおり、教諭との圧倒的な力関係から、子どもが忖度して、なかなか自分の意見を言い出しにくい構図を考えなければなりません。いわゆる「権力勾配」です。特に、受験を控えている場合、調査書を「人質」にされかねません。そうでなくとも、成績を付けるのは教諭だし、通知表を見て親にネチネチと小言を言われるかもしれません。
それに、自分が正しいと思っても、年齢や権威から自信が揺らいでしまうこともあり得ます。幼少期から教諭に強硬な姿勢を貫ける人は稀でしょう。
また、いつ相手の逆鱗に触れて怒鳴られるか分からない環境で、自分の意見を理路整然と主張するのは困難です。すぐキレて怒鳴り散らすかもしれない相手に自分の意見を貫くのは大人でも難しく、容易に萎縮してしまいます。子どもなら、なおさらハードルは高いでしょう。心理的安全性がないのに、どうして率直な意見を述べられるでしょうか。それに、クラスの面前で怒鳴り散らされたのを発端に、同級生からいじめられることも考えられます。
さらに、社会経験の乏しい未成年だと、自らの経験を相対化して異常を感じたり、不祥事やハラスメントに気づいたりするのも非常に困難です。不祥事やハラスメントの危険性が少なく、心理的安全性のある「正常な環境」の経験が乏しいのに、何を以て「この環境は異常だ」と気づけるでしょうか。
実際に、当時の私もこの担任教諭を「異常」だと認識できませんでした。
しかも、小中学生だと、まだ語彙力や表現力が乏しく、自分の意見を上手に伝えられない場合もあります。もし「おかしい」と感じても、「なぜおかしいのか」を要素分解して、論理的に言語化できるとは限りません。年齢や経験で上回る教諭が児童や生徒、また保護者を言葉巧みに言いくるめるのは容易です。特に、圧倒的な力関係に子どもがビクビクしている状況だと、なおさらです。
親は「教諭を疑う」批判的思考を保ち、学校外から教室内の状況を把握するように努めるべき
だから、せめて親は児童・生徒間のいじめのみならず、教諭からのハラスメントの可能性も念頭に置きながら、子どもとの会話や学校からの連絡といったあらゆる手段で、学校や教室の状況を把握するように務めなければなりません。周囲の環境が客観的には異常でも、社会経験の乏しい子どもはアンテナが鈍く、その環境を自ら「おかしい」とは感じられないかもしれません。よって、親が代わりに学校環境の異変に気づかなければならないシチュエーションは存在し得ます。もちろん、学校の外にいる親が教室内の状況を適切に把握するには相応のコストが掛かります。しかし、この努力を怠れば、「気づかない間に子どもがいじめやハラスメントの被害者になっていた」状況を生みかねません。
また、学校で何かトラブルがあったときや、通知表の記載に疑問を抱いたときも、親は教諭の主張やコメントを鵜呑みにせず、子どもの言い分にもきちんと耳を傾けなければなりません。特に、年齢や経験で上回る教諭は子どもよりも遙かに弁が立つ構図に鑑みると、単に両者の言い分を比較するだけでなく、言語化する能力が相対的に低い子どもの言葉を上手く引き出す努力も必要です。子どもにとって、本来なら親は最も身近な「頼れる大人」のはずです。「学級裁判」では教諭が検察官と裁判官になるわけで、親には教諭と可能な限り対等な立場で向き合う「弁護士」として振る舞う覚悟が必要です。さもなければ子どもの権利や尊厳は容易に尊厳され、取り返しの付かない事態すら招きかねません。
さらに、親は子どもに「先生の言うことを聞きなさい」と思考停止させずに、きちんと権力勾配に抗える「弁えない態度」も養う必要があります。ハラスメントの加害者かもしれない人物を疑うことなく、素直に従うのはどう考えても危険ですよね。
そのためには、子どもが親に反論できる「家庭内の心理的安全性」も、また当然の前提です。家庭で親に毅然とした態度で意見を述べられない子どもが、学校で教諭に堂々と主張できるとは考えられませんよね。学校や社会で自分の意見を主張するためには、その素地を家庭で養わなければなりません。
そして、親も「教諭を疑う」姿勢を持つべきです。「批判的思考」と言っても良いかもしれません。教諭の主張や、教諭から提供される情報を無批判に受け入れるのではなく、様々な角度から慎重に検討・検証して、吟味しなければなりません。念のため誤解のないように述べておくと、批判的思考とは「粗探し」ではありません。よく考えた結果、場合によっては教諭に協力するとか、論理的な根拠とともに賛同することもあるでしょう。
親は教諭との「癒着」を避け、むしろ緊張感を保つべき
いずれにせよ、親と教諭の「癒着」は子どもから「安全地帯」を奪いかねません。学校が子どもにとって危険な場所なら、せめて家庭は「安全な場所」でなければなりません。
(もちろん、家庭内の虐待やDVを考えれば、逆のパターン(家庭が危険な場所で、学校が安全な場所)もあり得るものの、ここでは別の論点ですから割愛します。)
少子化が進む現代において、育児経験が豊富な親は決して多くありませんから、親が「教育のプロフェッショナル」のはずの教諭に相談したり、接点を持ちたくなったりする心情は理解できます。それに、親が教諭と緊密にコミュニケーションを取るのも、子どもの異変を即座に察知したり、児童・生徒間のいじめを把握する目的もあるでしょう。
しかし、親と教諭の距離が縮まるほど、子どもにとっての「安全地帯」は消失します。学校での振る舞いは家庭に、家庭での振る舞いは学校に、それぞれ「親や教諭の主張のまま」秘密裏に伝わり、往々にして親や教諭の瑕疵は棚に上げられたまま。子どもは反論や補足する機会を得られず、一方的に糾弾されます。これは刑事裁判で弁護士と検察官が癒着しているようなもので、子どもの立場から大人の言葉で擁護してくれる人物が不在の構図です。
実際に、私も小学校3年生のとき、母親が女性の担任教諭に秘密裏に相談していた機微な事項を怒鳴り散らされながらクラスの面前で暴露され、尊厳を大きく傷つけられたことがありました。また、このnoteで取り上げた小学校6年生の担任教諭にも、母親が携帯電話の電子メールで秘密裏に相談していたのが発覚した上に、その旨を教諭から他の児童に吹聴されたこともありました。もちろん、どちらのケースも、一般企業なら「ハラスメント」に該当するでしょう。
たとえ親が教諭と「秘密裏」にコミュニケーションを取っているつもりでも、教諭が秘密を守るとは限りません。また、このnoteで取り上げた小学校6年生の担任教諭のように「アンガーマネジメント」できない教諭も残念ながら少なくないし、教諭は往々にして児童や生徒の「名誉」や「尊厳」に気を遣いませんから、先述の小学校3年生の担任教諭のようにヒステリーを起こして機微な事項を暴露してしまうこともあり得ます。子どものために相談したはずなのに、これでは児童が却って辛い思いをしたり、追い詰められたりしてしまいます。どう考えても逆効果です。
むしろ、いままで述べてきたように、教諭が児童や生徒の人権や尊厳を軽んじたり、容易に傷つけたりする蓋然性がある以上、教諭を無邪気に信用してはいけません。親は教諭に警戒感や緊張感を保ち続ける必要があります。
昨今は親が学校に抗議や要求をすると、すぐ「モンスターペアレントだ!」と非難されがちです。しかし、「モンスターティーチャー」とでも言うべき異常な教諭の存在にも目を向けなければなりません。
おわりに
もちろん、すべての教諭が異常者だと言いたいわけではありません。
この公立小学校でも、たとえば校長や教頭は小まめに声を掛けてくれました。特に教頭は小学校を卒業してから10年以上が経つ現在でも連絡をくれたり、事あるたびに応援や激励のメッセージを送ったりしてくれます。
だから、立派な教諭や尊敬できる教諭もいることは、きちんと述べておかなければなりません。すべての教諭が悪人かのように捉えるのは職業差別です。
しかし、教諭は子どもの成績や内申書、また学校生活を都合良く「人質」にできる立場なのは間違いありません。学校現場には子どもや保護者が抗いにくい「圧倒的な力関係」が存在します。また、教諭の機嫌を損ねればクラスの面前で怒鳴り散らされるかもしれないわけで、子どもは常にビクビクせざるを得ません。
さらに、社会経験の乏しいこどもは自らの経験を相対化して異常を感じるのも困難です。しかも、語彙力や表現力が乏しい小中学生は自分の意見を上手に伝えられない場合もあります。一方で、年齢や経験で上回る教諭が児童や生徒、また保護者を言葉巧みに言いくるめるのは容易です。
よって、教諭の不祥事には敏感にならざるを得ないし、また構造的に発生してしまう「暗数」についても考えると安易に教諭を信頼しにくいのも、また本音です。
かつて「モンスターペアレント」との単語が流行った背景には、このような「教諭に有利・子どもと保護者に不利な学校現場の不均衡な構造」と「モンスターティーチャー」の存在が背景にあったようにも感じます。
もちろん、本当に「モンスターペアレント」と呼ぶべき、度を超えた要求をする保護者もいるでしょう。しかし、子どもの成績や学校生活すら教諭に「人質」にされ、子どもの人権や尊厳が容易に踏みにじられる構図のなか、保護者の言動が多少は強かったとしても、それを「モンスター」と揶揄するべきではないでしょう。もはや単なる「逆ギレ」です。
それに、幼少期に学校で理不尽な思いをした保護者が教諭を信頼できずに、教諭に当たりが強くなるのも、その言動は褒められたものではないにせよ、自然な心情と言えます。
つまり、「モンスターペアレント」と呼ばれる保護者の言動の一部は問題だらけの学校現場に起因しているわけで、クレームを入れる保護者を教諭や学校が「モンスター」と揶揄するのは単に「自分たちの不祥事を棚に上げているだけ」でしょう。
また、「モンスターペアレント」との呼称が定着することで、正当なクレームであっても、保護者が学校に抗議しにくくなっている構図も指摘しなければなりません。これでは良識ある保護者ほど「モンスターペアレント」と呼ばれないように学校へのクレームや抗議を避けてしまいます。
この小学校6年生の担任教諭ほか、公立小中学校での嫌な思い出は私の心に深く根を下ろしています。いまでも、ふとしたときに思い出してしまいます。
正直、もし私が子どもを育てる機会があっても、無条件に子どもの教諭を心から信頼するのは不可能だと思います。特に、問題ある教諭であっても地位が保障され、処分されにくい公立小中学校に、子どもを通わせたいとは思えません。だから、学校の選択肢が多い(=学校間の競争が発生するため、学校現場や教諭が自らのクオリティを向上させるインセンティブのある)都会で子どもを育てざるを得ないでしょう。
でも、都会で家族と暮らして、まともな同級生や教職員のいそうな学校に子どもを通わせるとなると、それなりにお金が必要です。子どもが増えれば広い代わりに家賃が高い家に引っ越さざるを得ないし、もちろん学費も倍増します。「まともな学校や教諭」「安心して子どもが通える・保護者が通わせられる学校」が高級品であり続ける限り、少子化が続くのも納得してしまいます。
教職員の不祥事が報じられるたび、この「殿様」を自称する元担任教諭との日々を思い出し、「教諭」という仕事に就く人たちへの不信感を、どうしても強めてしまうのでした。
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