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【エッセイ】これからは「田舎」の話もしよう: ポリティカル・コレクトネスが絶対に直視できない「地域格差」を考える

はじめに

先日『意識高い系は「弱者の視点」を持ち得るか?: キラキラ界隈の「冷や飯食い」として「意識高い系」エコーチェンバーを考える』と題したエッセイを投稿し、これを機にABEMAプライムに出演してから「地域格差」について考えています。

このエッセイでも述べたように、たとえば大学進学のハードルは「都会と地方」と「男性と女性」で敢えて比較すると、圧倒的に前者でこそ格差が大きい(よって【地方×女性】のように、弱者性が交差して「掛け算になる」属性こそ最も大変になる)はず。そして、この格差は大学進学に限らず、就職活動ほかキャリア形成全般で指摘できます。つまり、「地域格差」は「階級の格差」であり、地域格差は「階級の再生産」に繋がっているのです。しかし、本稿で述べるように、旧態依然とした価値観が蔓延る田舎を含む地方はポリティカル・コレクトネスに反する(政治的に正しくない)存在であり、よってポリティカル・コレクトネスは構造的に「地域格差」を構造的に直視できません。

注:
本稿で「都心」とは大都市(圏)の中心街を指しますが、概ね東京都心(主に千代田区、中央区、港区ほか)を想定しています。「都会」は主に都心から1-2時間程度の通勤・通学圏(例: 1都3県主要部)内を指します(もちろん都心も含む)。
また、「地方」とは都心・都会を除く、学校や職場の選択肢が充実していない地域全般を指します。後述の「田舎」はもちろん、たとえば札幌市や福岡市といった地方の政令指定都市(ともすれば大阪市すら)も、学校や職場の選択肢は東京ほど充実していませんから、場合によっては「地方」に含めるものとします。
さらに、「田舎」とは地方のなかでも不便な地域を指します。都心との数直線で対極に位置する存在です。産業基盤が貧弱だったり、公共交通機関がなかったりする地域です。具体例を挙げると差別に繋がりかねないため、省略します。
ただし、これらの定義は文脈によって微妙に変動すると、予め申し添えます。むしろ、厳密な定義は不毛な「田舎マウント・不幸自慢」を目的とした「揚げ足取り」に直結しかねず、本質的な議論を容易に妨害しかねません。

進学も就職活動も「東京が基準」のいま、「田舎に生まれる」だけで圧倒的に不利

本稿を執筆する契機になったのは、神戸大学大学院 国際協力研究科 木村幹 教授による以下のツイートです。「大学や職場が集中している大都市圏に生まれ育つメリット(と、田舎に生まれ落ちる莫大なデメリット)」に関する投稿。

私自身も、地方出身として、この「地方に生まれ落ちるデメリット」を痛感させられます。

地方出身者は構造的に不利な大学進学が浮き彫りにする「都会と地方の階級格差」

私が生まれ育ったのは群馬県高崎市。県庁所在地ではないものの県下では最大の都市で、東京駅から高崎駅まで新幹線で約1時間。そう考えると幾分かは「都会」に感じるものの、実際には乗り換え・乗り継ぎがあるので、現実的には新幹線で約2時間、在来線で約3時間。
一応は関東地方でありながら、日常生活で東京都心と文化的に共通する唯一の存在はテレビだけ。でも、お昼のワイドショーで取り上げられる東京都心のお洒落な人気店は「指を咥えてみているだけ」の遠い存在でした。NHKの『首都圏ニュース845』は映るものの、お世辞にも「首都圏」であると実感しにくい地域。
地元に法学部を擁する大学はなく、群馬県内の大学は就職活動でも有利とは言い難い。よって、偏差値が一定以上の友人は多くが大学進学に伴って地元を出ていきました。かくいう私も、いまでこそ私はキングス・カレッジ・ロンドンに在学しているものの、渡英する前には東京都内の大学に在籍していました。そのときは父親の無理解も相まって幾多の苦労がありました。

地方に生まれると、一定以上のキャリアを目指すには大学進学のため上京するほかないのです。でも、1人暮らしするとしても、先述の通り、まともな学生生活には月額10-15万円の負担を要します。もちろん節約すれば家賃を含む生活費は削れるでしょう。しかし、切り詰めるほど実家から通学している同級生から見劣りして、授業やサークルでも悪目立ちしてしまいます。キャンパスで肩身が狭い思いをしないためには、これくらい現実的に必要です。それに、1人暮らしをするには新生活のため家具や家具も買わなければならないし、また地元からの引っ越し費用も掛かります。「地方に生まれ落ちた」だけで大学進学には多大な費用が発生して、ともすれば苦しい生活を余儀なくされます。言い換えれば、地方出身者は「相対的貧困」に陥りやすい、とも形容できます。これこそ「地域格差」が「階級の格差」である真相です。

また、大学入試でも、交通費・滞在費が何万円も掛かります。これも「節約すれば削れる」としても、やはり不慣れな地で道に迷って遅刻したり、途中で犯罪に遭遇したりするリスク(特に女性は不安が強いでしょう)を考えれば、ある程度は便利で治安の良い地域のホテルを選ばざるを得ません。前後の移動で疲れたまま入試に臨むわけにもいきませんから、運賃が高くとも夜行バスより新幹線や飛行機での移動を選ぶのも頷けます。都会の実家から安心して通える子息子女との差を埋めようとすればするほど、大学入試には費用が掛かります。さもなければ不安や疲労のなか、心身ともに不利な状況で大学入試を戦わなければなりません。なお、東京大学、一橋大学、東京工業大学や早稲田大学といった難関大学は試験会場が都内のキャンパス(※慶應義塾大学は横浜市港北区のキャンパス)で、これらの大学を地方出身者が受験する場合は上京を余儀なくされます。

しかし、いくら必要だからとて、すべての家庭が多大な費用を払えるとは限りません。ない袖は振れませんから、必然的に「お金を払えないので子息子女を都会の大学に送り出せない家庭」も生じます。しかも、木村教授が先述のツイートで指摘するように、一定レベル以上の大学は所得水準が高い都会に集中しており、地方ほど所得水準が低く、「子息子女を都会の大学に送り出しにくい」構図になっています。そして、昨今の物価上昇や所得低下によって、この「地方だからお金がなくて大学進学・上京できない」ケースは時間を追うごとに増えているでしょう。「地域格差」が拡大している構図です。

さらに、都会と地方に横たわる「モチベーション格差」についても目を向けなければなりません。これが影響するのは「進学や上京の費用を払えなくはないものの、家計への負担(感)が大きい」所得階層(余裕で払える階層・どんなに頑張っても払えない階層の「中間層」)です。この場合、本人の熱意や家庭の理解によっては上京して進学できる可能性があります。
しかし、都会と地方では「モチベーションを獲得する機会」すら格差がある点を指摘しなければなりません。どういうことかと言うと、「大学を卒業してから描けるキャリアの解像度」が違うのです。地方だと、たとえば小中高校までに出会う「大学を卒業して働いている大人」は学校教師や医師くらい。間違っても、総合商社とか戦略コンサルティングファームに勤めている大人なんていません。でも、都会に生まれ育っていたら、同級生の親や街を行き交う人たちに、そういう大人たちがたくさんいます。家庭や学校での会話、街にある企業や店舗の看板、書店のラインナップといった「選択肢を示唆してくれる(ヒントやインスピレーションを与えてくれる)日々の情報量」が都会と地方では大きく異なるのです。というか、大学のキャンパスがない田舎だと「街に大学生がいない」なんてケースもあります。
すると、必然的に「キャリアの解像度」とか「大学進学の意義への理解」に地域格差が生じるし、進学や教育へのモチベーションすら都会と段違いにならざるを得ません。よって、本人が保護者を説得する論拠や熱意も、また要求された保護者の意識や理解も変わってきます。故に、「都会に生まれ育っていたら、親の理解を得られたのに」なんてケースが生じてしまう。「本気なら説得できる」と言われるかもしれないものの、そもそもスタートラインの「本気になれる」環境すら違うのです。

しかも、大学入試で測られる「能力」を向上できる機会も、東京と地方では段違いです。地方だと、小中高校や進学塾・予備校の選択肢は乏しい。たとえば石垣島や宮古島のように「普通科高校が1つしかない」地域すらあります。それに、特に田舎に行けば、まともな書店すらない地域もあるわけで、質の高い参考書すら簡単に入手できるとは限りません。でも、都会なら選択肢が豊富。自分に合った環境やリソースを活用して能力を開花させられます。私立中学校だけでなく中学受験の塾もあるし、東京大学への高い合格実績を誇る鉄緑会もあります。都会には努力で志望校への合格可能性を高められる手段が豊富にあるのです。入試を受けるまでに歩める道がまったく異なるのに、あくまで「点数で判断するから公平公正」の建前によって合否や、卒業してからのキャリアが変わってしまうのです。当然ながら東京大学はあくまで「志望校の例」に過ぎないものの、国内で最も恵まれた教育研究機関の一つです。比肩する存在である旧帝国大学も各地方で中心となる政令指定都市に存在するのみで、同じ都道府県でも実家から通えない地域(たとえば京丹後市から京都大学、網走市から北海道大学)が多いことも見過ごせません。
もちろん、なかには田舎から東京大学に合格する人もいるでしょう。それは本当に凄いことで、「天才」と呼べるかもしれません。でも、そういう極端なケースを持ち出して「本当に頭が良い人ならどんな環境でも輝ける」とするのは悪手です。いまの論点は「天才でなくても努力で理想のキャリアを描けるのが都会で、天才でないと足かせが大きいのが地方や田舎」という地域格差の構図です。「天才」ではない(天賦の才ではなく努力によって入学する)多くの受験生にとって、「田舎に生まれ落ちたため志望校に手が届かなかった(もし東京に生まれ育っていたら合格できた)」としたら、それはあまりにも残酷な格差ということです。自分の意思で田舎に生まれ落ちたわけでもないのに、努力ではなんともできない困難を押し付けられて「天才じゃないのが悪い」というのは明らかに不条理です。

そして、学校や塾の選択肢がない状況は「いじめや犯罪からの逃げ道すらない」悲劇にすら直結します。たとえば「小学校でいじめてくる同級生と違う中学校に行きたい」「この地域の公立小学校は荒れているから、別の学校に行きたい」と思っても、田舎だと「ないものねだり」。でも、やはり都心だと、先述の通り選択肢が豊富。「いじめや犯罪からの逃げ道」すら地方、特に田舎にはない。しかも、否応なく通わされた公立学校でいじめに遭ったり、不登校・引き籠もりになったりして人生やキャリアを閉ざされても、現状だと「自己責任」扱い。選択肢や逃げ道が豊富な都心なら、学校適応できたかもしれないのに。先述の通り、山間部や島嶼部だと、高校すら選択肢が限られる場合もあります。すると「いじめられっ子」の人生の難易度はもっと高い。
それに、地方だと課外活動(部活やクラブチーム)の選択肢も少なく、必然的に「学校のクラス」に縛られざるを得ません。田舎になるほど、いじめから逃れられる学校外の居場所・行き先も減るのです。また、地方ほど部活動の加入が義務づけるケースが多い(しかも選択肢が乏しいくせに)現状も伺えます。同様に、ブラック校則や理不尽な内申書も、地方だと回避しにくい構図にあるでしょう。よって、制度的に地方ほど反骨精神が強い児童生徒は評価されにくいし、他にもマイナースポーツに取り組みにくいのは間違いありません。教職員にとって都合の良い児童生徒としての存在を制度的に強いられ、その適性がないと「爪弾き」にされてしまいます。すると、公立学校の理不尽な体質に適合できない高校生に大学入試の指定校推薦なんて「夢のまた夢」でしょう。

もっと言えば、AO入試の志望動機書や面接で有利になる機会や経験も、やはり都会に偏在しています。高校生に向けたボランティアやインターンシップなんて地方だと稀。地元にある機会が自分に合って実力を発揮できるとは限りませんから、やはり予め選択肢の多い都会ほど有利なのは自明でしょう。
たとえば留学も、地方だと国際空港に移動するまでのお金や時間が一つの旅行のようなものですから、田舎だとハードルが高い。
そもそもパスポート保有率は田舎に行くほど、つまり地方ほど低い。

かといって、地方の実家から通える大学で諦めが付くとも限りません。地方の大学は往々にして偏差値が低く、就職活動で「学歴フィルター」に引っ掛かる可能性が高い。生まれる場所は選べないのだから、「地方に生まれたのだから希望するキャリアを歩めない大学で我慢せよ」は極めて酷です。また、地元に希望する学部や専攻がない場合も考えられます。たとえば国立の芸術大学は東京にしかありません。大学は知的好奇心に基づいて知識や教養を得る場であり、やりたくもない学問で我慢しなければならないのは理不尽です。それに、そもそも田舎だと実家から通える範囲に大学がないケースもあります。「あれこれ駄々をこねるな」と言われるかもしれませんが、もし都会に生まれ育っていたら希望する学問分野に高いレベルで取り組めていたのに、田舎に生まれ落ちたために諦めなければならないなら、それは不条理な「格差」と言わざるを得ません。しかも、その格差から抜け出すため、いまの構造では地方出身者は多大な費用を払わされています。

こういう指摘をすると、「そこまで無理して大学に行かなくても良い」と言われるかもしれません。しかし、賃金センサス(賃金構造基本統計調査)ほか各種統計が示すように、大学卒業と高校卒業では生涯賃金に大きな差があります。
それに、大学を卒業していないと就けない職業もあるし、本人が大学院への進学を希望しているかもしれません。大学を卒業しないと得られない機会も多くあるなか、格差を是正する手段たる高等教育へのアクセスが限られる田舎に生まれたからと、夢を諦めなければならないのは是正されるべき「格差」なのです。

「地方出身」が学生生活や就職活動で圧倒的に不利な構図は「階級の再生産」を生んでいる

しかし、地方出身者が進学のため上京したからといって、幸せな学生生活を送れて、就職活動で都会出身者に比べて有利になれるわけではありません。依然として学生生活や就職活動は地方出身者にとって不利な構造になっています。
たとえば、先述の通り、1人暮らしでまともな学生生活を送ろうとすると、現実的に月額10-15万円の生活費が必要です。しかし、実際には必要な金額すべてを家庭が捻出できるとは限りません。地方の所得水準は東京より低いのですから、そもそも東京の物価水準は手が届かないとしても無理はありません。実際に、全国大学生活協同組合連合会の「第57回学生生活実態調査の概要報告」によると、2021年の仕送り平均額は71,880円でした。とても「まともな学生生活」には足りるはずがありません。

すると、地方出身者の学生は必然的にアルバイトで生活費を賄わなければなりません。本来なら学業や課外活動に割けるはずの時間や体力を、アルバイトに捧げなければならないのです。お金がどんなにあっても、あとから学生時代や青春は巻き戻せません。学費を考えても、また貴重な青春ということを踏まえても、大学生の「1時間」の価値なんて「1,000円ぽっち」ではないはず。時間も体力もあるはずの若いうちこそ、図書館に籠もって書籍を読み漁ったり、興味ある分野について教員や友人と議論を交わしたり、もしくは旅行に出て視野見聞を広げたりするべきでしょう。
でも、「貧乏暇なし」故に、苦学生は本来なら金銭化できないはずの若い時間を安い賃金で切り売りさせられているのです。もちろん、これは地方出身者に限らないし、地方出身でも金銭的に余裕があれば(=苦学生でなければ)該当しません。しかし、都会と地方の所得水準の格差や、地方出身だから発生する諸費用(一人暮らしの生活費や規制に伴う交通費・滞在費ほか)を踏まえると、地方出身者ほど苦学生になりやすい構造です。しかも、先述の通り、大学の偏在によって、階層移動を促進するはずの高等教育へのアクセスも限られている。故に、「地域格差」は「階級の格差」なのです。

一方で、都会出身で実家から通学している学生はアルバイトをしなくとも、実家での生活が保障されています(もちろん、DV・虐待や毒親といったケースを想定するのも重要ながら、あくまで別の論点ですね)。だから安心して勉学に専念しやすいし、時間や体力で絶対的なアドバンテージがあります。往々にしてアルバイトは「すきま時間に遊ぶお金を片手間に稼ぐ」程度のものだし、空いた時間があるから課外活動に取り組んで「学生時代に力を入れたこと(いわゆる「ガクチカ」)重視の選考」も突破しやすい。時間や体力の余裕があるのでインターンで活躍したり、語学や資格取得のような自己研鑽に励んだりできる。「お金がある」だけで時間的・体力的な余裕を得られるし、故に就職活動やキャリアアップも取り組めます。そして、地理的な優位性から、実家からの通学圏内に大学がある学生ほど、お金に余裕が生まれやすい。

裏を返せば、1人暮らしを余儀なくされる地方出身者をはじめ、苦学生は生活費のためアルバイトに時間も体力も奪われ、選考で有利になる(もしくは実質的に必須の)インターン、もしくは就職活動そのものすら参加が阻まれます。語学や資格取得ほか自己研鑽はもちろん、自己分析や業界研究だって十分にできるとは限らない。その結果として、就職活動でも相対的に不利。よって、「(都会と地方の)階級格差」は覆しにくく、この格差は「固定化・再生産」されるのです。

かといって、先述の通り、地元の大学に通えば済むとも限りません。希望の専攻や、大学そのものがない地域もあります。そして、地方の大学は偏差値が低い傾向にありますから、仕方なく地元で進学しても「学歴フィルター」で弾かれがち。学歴フィルターが抱える「全員が偏差値のため高いコストを払う(ことができる)」との無邪気で酷な前提によって、そのコストを払えない地方出身者や苦学生は希望の職場から「門前払い」されるのです。それに、もし選考に進めるとしても、説明会ほかイベントや、OB・OG訪問、そして面接のたびに交通費・滞在費が掛かります。移動で時間も体力も奪われるし、余計な時間が掛かるということは本来ならその時間にアルバイトで稼げたはずの給与だけでなく、得られたはずの経験すら失う構図です。それに、都内の有名大学だとWebテストの回答すら出回っている一方で、地方だと就職活動を有利に進める仲間がいるとも限りません。

仕方なく地元で就職しようにも、希望する業界や職種が地方にあるとは限りません。どの地域でも官公庁や地域金融機関といった公共交通機関、また政令指定都市なら地方銀行や電力会社はあるでしょう。でも、先述の通り、たとえば総合商社とかコンサルティングファームなんて地方にはないし、ベンチャー企業も稀。もし、空港すらない田舎で生まれ育った本人の希望が「グローバルに働きたい」だとしたら、どうすれば良いのでしょうか。地方ほど選択肢が少ない構図です。
それに、地方ほど人口減少が強まるいま、地元での就職は勤務先の倒産や買収といったリスクを孕みます。たとえば地方銀行も「潰れる」「消える」といった声が相次ぎ、いまや安泰な就職先とは言い難い状況です。故に「地元で就職すれば良い」というのは余所者の無責任な言説であり、地元に留まるリスクを被る当事者からしたら「簡単に言ってくれるな」というものでしょう。それに、地方に生まれたからと、安定性や将来性が乏しい職にしか就けないなら、この「都会と地方格差」が「階級の格差」であり、「格差の固定化・再生産」に繋がっている何よりの証左です。

「政治的に正しくない弱者」だからポリティカル・コレクトネスによって切り捨てられる地方

しかし、このように地方出身者が構造的に「弱者」であっても、その「救済」「格差是正」は前向きに議論されていません。それどころか、地域格差は頻繁に無視され、むしろ政治の世界では地域格差が強められつつあります。
たとえば男女格差・ジェンダー不平等には、その是正のため、多くの職場でアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)が講じられています。政治の世界でも、クォータやパリテが議論されています。いまや女性の政治家や経営者を増やすのは絶対的な正義とされています。また、「ダイバーシティ推進」として、人種、宗教、性的指向(LGBTQ+)、年齢、障害の有無に焦点を当てた多様性が企業経営をはじめ多くの空間で叫ばれています。
確かに、これらの「政治的に正しい」とされる項目はいずれも重要です。しかし、これらの議論で「出身地」「地域格差」は往々にして見向きもされません。たとえば「地方出身者は構造的に格差があるから、その是正のため積極的に採用しよう」という企業は稀です。また、いま「一票の格差」是正のために検討されている「10増10減」案は「投票価値の平等」の大義名分のもと地方から議席を奪うものであり、いまのところ「差別を是正するため地方に議席を割り当てる」との議論は絶対に起きる気配がありません。
しかも、地方ほど大学進学が阻まれるように、地方ほど女性への差別は根強い傾向が伺えます。よって、地域格差が放置され続ける限り、現行のジェンダー平等で恩恵を受けるのは「都会の女性だけ」になってしまいます。

「政治的に正しくない」旧態依然とした地方の実態

確かに、多くの人は直観的に地方を「弱者」と認めにくいのかもしれません。特に、女性差別のように旧態依然とした価値観が蔓延る地方、特に田舎を「政治的に正しい」存在や「かわいそうな弱者」とは考えにくいでしょう。

むしろ、未だに家父長制の残滓が維持されてジェンダー的に「強者」とされる男性が実権を握っており、気候変動対策への意識も薄い。障害者やLGBTQ+は差別されがち――。そんな「政治的に正しくない」場所としてのイメージが先行しているように思えます。つまり、「旧態依然とした価値観が蔓延っている」とか「未だに意識をアップデートできていない」。
確かに、実際に都道府県議会や市区議会議員の女性割合は大都市圏ほど高く、「地方は未だにジェンダー平等への意識が相対的に低い」と言えるでしょう。
※もちろん、「都会から女性差別が一掃された」わけではありません。

しかし、産業構造や交通網が貧弱な地方、特に田舎に住む有権者たちが都会や都道府県庁所在地からお金や産業を持ってこられそうな政治家を選ぶのは、ある意味において必然。そして、そういう政治家は現時点において大半が男性になってしまう。もちろん今後は時間を掛けてジェンダーバランスが是正されるべきだとしても、いまは目先にある「地元の存続」を優先せざるを得ない故に男性政治家を選ばなければならない切実な事情は確実にあるし、その実情は酌まなければなりません。無理やりにでも鉄道路線や空港を存続させ、高速道路や新幹線を誘致しないと、その地域は衰退してしまうのです。
むしろ、そういう境遇を無視したジェンダーバランス一辺倒のポリティカル・コレクトネスは「地方(特に田舎)への死刑宣告」にも等しい。力強い政治家を、たとえ男性ばかりだとしても選ばないと街が維持できない――ともすれば住民が路頭に迷うのに、「女性の政治家を選ばないので田舎は差別的だ」とは、もはや単に「無邪気で無責任な主張」に他なりません。今回の参議院議員選挙で「女性に投票しよう」と呼び掛けている人たちを見ても、正直「性別だけで政治家を選べる人たちが羨ましい」との感想すら抱いてしまいます。

また、実際に足を運べば分かるように、地方に行くほど障害者やLGBTQ+に対応した公共施設や店舗は少なく、バリアフリートイレどころか温水洗浄便座すら設置していない公共施設も多い。しかし、自治体の財政基盤が弱く、障害者やLGBTQ+に対応した施設の改修予算を捻出できない場合もあるでしょう。早急に対応するのが望ましいとしても、対応の遅れをあながち強くも批判できません。
つまり、ポリティカル・コレクトネスよりも「地域の維持や存続」を優先しなければならないとか、そもそもポリティカル・コレクトネスの要求に対応するリソースがないといった経緯も考えられます。
(もちろん、国による地方への再分配が上手く機能していない結果でもあり、その不作為責任を議論する必要もありますが、これはあとで述べます。)

それに、これらの経緯だけでは説明できないような「女性はお酌させられる」ような女性蔑視や障害者・LGBTQ+への差別といった旧態依然とした価値観が残り、意識をアップデートできないのも、地方、特に田舎は都会と情報や交通が遮断されているから故でしょう。先述の通り、大学の偏在によって高等教育へのアクセスは地方ほど不利だし、まともな書店は田舎に乏しいわけで、きちんとした知識や教養を自分の生まれ育った街だけでは得られない。しかも、都会で先進的な知識を得て旧態依然とした風潮を打破できそうな若者は帰ってこない。すると、都会や外国の先進的な、もしくは学術的な価値観を取り入れる機会が乏しいのは、地方、特に田舎が構造的に「弱者」であるからに他なりません。知識をアップデートする機会は都会に偏在しているのです。

なお、気候変動対策のため電気自動車や水素自動車を導入しようにも、TESLAのスーパーチャージャーや水素ステーションは地方や田舎に少ない。それに地方や田舎はだと都会に比べて所得水準も低いため、「エコカーに買い換える」ハードルも相対的に高い。地方、特に田舎が経済やインフラストラクチャーの観点で「置いてけぼり」にされている実情を無視した議論は乱暴そのものです。
地方や田舎がポリティカル・コレクトネスを必ずしも優先させられない主な理由の一つは「地方や田舎が『弱者』だから」なのに、地方や田舎の現状がポリティカル・コレクトネスに反するため、地方はポリティカル・コレクトネスの文脈では「弱者」として扱われない構図にあります。

もっと言えば、そんな旧態依然とした価値観にしがみつき、差別的・封建的な制度が横行している地方や田舎が「かわいそう」と思われにくいのも、また確かでしょう。大衆が弱者を救済するとき、もしくは是正する格差を選ぶとき、ロジックやファクトではなく共感や同情を優先してしまうとされています。よって、ホッキョクグマのような「見た目が可愛い動物」は共感や同情を引き起こしやすい属性だから配慮や救済を得やすく、ヒキガエルのように共感や同情を生みにくい属性は往々にして窮状を黙殺・放置されがちです。実際に心理学者のポール・ブルームは『反共感論』において、感情(共感・反感)に基づく判断は理性に基づく判断に比べてバイアスが生じ、救済の対象が偏る上にその手法が恣意的かつ非効率なものになると述べています。

それに、2016年や2020年の米国大統領選挙を見ても、トランプ氏の支持率が高かった地域を「都会と地方の格差や分断」に真っ正面から向き合って理解しようとする見解は少ない。
たとえば、どれだけの人が忘れられた「ヒルビリー(アパラチア山脈の南部に住む白人の農民)」の実態や窮状に目を向け、その格差是正を議論したでしょうか。これも一つの「地域格差」なのに、ヒルビリーはWASP(White=白人、Anglo-Saxon=アングロ・サクソン、Protestant=プロテスタント)だからと、雑に「マジョリティ」「強者」と非難され、'educate yourself'と、「特権」や、ともすれば「原罪」の自覚を求められます。しかし、ヒルビリーは貧しい上に、所得も学歴も低い。人種が「白人」だからとて、お世辞にも「特権階級」とは言えない存在です。
むしろ、都会でポリティカル・コレクトネスを振りかざして特権の自覚を求める人たちこそ、性別は「女性」で人種は「黒人」だとしても、所得や学歴の高い「特権階級」ではないでしょうか。つまり、性別や人種といった生来的かつ可視化されやすい要素によってのみ「強弱」が決まり、構造や所得・学歴といった社会的かつ可視化されにくい要素は無視され、後者の要因による弱者は「(社会的には)弱者でありながら、(生来的な要素で)強者として叩かれている」構図です。

こういう指摘は「Whataboutismだ!」「論点ずらし」と批判されるかもしれません。しかし、「注目されて是正が叫ばれる格差と、そうでない格差がある」「関心が寄せられ、共感や同情が集まる弱者と、そうでない弱者がいる」との歪な構図を指摘することには大きな意義があります。
なぜなら、大衆の注目や関心が集まると、報道や政治で取り上げられ、その対策や是正が議論されます。「#KuToo」運動が好例でしょう。よって大衆の注目や関心は一種の「公共財」と言えます。

言い換えれば、「誰にも見向きされない格差や弱者は黙認・放置される」のであり、それを避けるため「こっちにも目を向けてくれ!」「その格差や弱者に取り組むなら、こっちも同時に処理せよ」と叫ぶのはまったくもって妥当であり、大きな意義があります。

付言すると、この地域格差に目を向けないメディアにも、責任の一端はあるように思えます。地方や田舎の実情が都会の常識からかけ離れているからこそ、その現実を伝えて格差の是正や問題の解決を喚起しなければならないはず。なぜなら、「誰にも伝えられなかった事実」は「存在しないもの」とされ、結果的には「起きていないこと」と同じにされてしまうからです。たとえば小中学校でのいじめ事件のように。しかし、実際にはテレビで都心のお洒落な人気店ばかり取り上げられ、地方の寂れたシャッター商店街は大して見向きもされない。

田舎を見捨てざるを得ない「ポリティカル・コレクトネス」が抱える致命的な矛盾

しかし、この「政治やメディアがポリティカル・コレクトネスに配慮するほど地方や田舎に目を向けられない構図」の根底にあるのはポリティカル・コレクトネスが孕んでいる「致命的な矛盾」ではないでしょうか。

先述の通り、地方や田舎の実態は「政治的に正しくない」「遅れている」。ポリティカル・コレクトネスにおいて絶対に忌避するべき光景が、地方や田舎には依然として残っています。もちろん、それは地方や田舎が構造的に「弱者だから」です。
しかし、もし地方や田舎を保護・尊重するべき「マイノリティ」と扱ってしまったら、「地方は弱者だから、強者である都会に対抗するため男性の政治家や経営者に頼らざるを得ない」とか「所得水準や施設・インフラストラクチャーで劣る田舎は気候変動対策に取り組む余裕がない」と、切実な事情によってジェンダー平等や気候変動対策が遅れるのも容認せざるを得ません。むしろ、ポリティカル・コレクトネスの理念を突き詰めると、そういう「遅れた地方や田舎のエンパワーメント」すら講じなければならなくなってしまうし、すると、必然的にジェンダー平等や気候変動対策といった項目は劣後を余儀なくされます。
だから、ジェンダー平等や気候変動対策といった「いまポリティカル・コレクトネスとされている項目」を重視するほど口が裂けても地方や田舎を直視して、その弱者としての性質を認めるわけにはいかないのです。

よって、必然的にポリティカル・コレクトネスにおいて称揚されるのはジェンダー平等や気候変動対策といったテーマを前面に打ち出せる「リベラルな都会」にならざるを得ません。先述の通り、既に都会は所得や教育の水準で構造的に「強者」です。しかし、その強者としての「特権」に向き合うほど、ポリティカル・コレクトネスにおいて重視されるトピックが「余裕のある人のもの」だと残酷にも浮き彫りになってしまうのです。

したがって、ポリティカル・コレクトネスが進展するほど、地域格差は強固なものになり、旧態依然とした地方や田舎の窮状は黙認・放置される運命に置かれてしまっているのです。もちろん、その結果として、地方に住む女性はエンパワーメントされないままだし、なかなか田舎で気候変動対策は進まないでしょう。ポリティカル・コレクトネスが進展するほど、特に地方や田舎においてポリティカル・コレクトネスの理念は達成されない、という点も、併せて指摘せねばなりません。
SDGs(持続可能な開発目標)は理念として「誰ひとり取り残さない」と誓っている一方で、ポリティカル・コレクトネスは残酷にも「地方や田舎を取り残す」のです。

また、先述の通り、いま「一票の格差」の是正でも地方の声が切り捨てられようとしています。経済的な力のみならず、政治的な発言力や存在感すら地方から削がれようとしているのです。いま進められている「10増10減」案では人口が減った10県(宮城、福島、新潟、滋賀、和歌山、岡山、広島、山口、愛媛、長崎)から10議席を減らし、その議席を人口の増えた1都4県(東京、神奈川、埼玉、千葉、愛知)に割り当てるものです。
確かに、憲法は「投票価値の平等」を要求しており、1票の価値が2倍を超えている現状の是正は急務です。しかし、そのために地方から議席を減らすのは「地方いじめ」とも批判があります。

この地方の窮状を告発して都会との格差を是正する役割を持つ国会議員の数を減らす方針は「地方の切り捨て」と同義です。憲法上の「国権の最高機関」たる国会に代表者を送れないとしたら、その地方は国政における発言力や存在感を失い、地域格差は永遠に是正されない構図が確定してしまいます。その賛否はさておき、先述の通り、クォータやパリテといった制度が検討され、「弱い立場の女性の議席(に伴う政治的な発言力や存在感)を確保して、不当な格差を是正しよう」との議論は活発なのに、「弱い立場の地方や田舎」からは議席を奪い、政治的な発言力や存在感は弱められようとしているのです。

これでは「生まれた地域で人生が決まる」現在の構図が強化・固定されるのみです。

おわりに

このように、産業のみならず教育すらも「東京が基準」になっているいま、地方出身者は相対的に「マイナス」の状態から人生やキャリア形成をスタートしなければなりません。地方や田舎に生まれると、なぜか自分たちだけスタート地点が実質的に後ろにあるのです。
もちろん、一口に「地方」「田舎」といっても、地域によって様々な程度の差があることは言うまでもありません。しかし、いずれにせよ、いま「都会に生まれる」のが絶対的なアドバンテージになってしまっている構図ことは間違いありません。しかし、都会出身者は「特権」を往々にして自覚しません。ジェンダーの議論で男性は'educate yourself'と言われるのに。

さらに、地方出身者の人生に置かれたハードルは都会出身者のそれに比べて高いし、その数も多い。言い換えると、地方出身者は人生ゲームを、なぜか都心出身者よりも少ない所持金かつ高い難易度でプレイさせられている、と形容しても過言ではありません。つまり、地域格差は階級格差であり、その格差は極めて固定化・再生産されやすい(=格差から脱却しにくい)のです。

しかし、地方や田舎の実態を政治やメディアが真っ正面から向き合う気配もなく、むしろポリティカル・コレクトネスによって地方や田舎は「旧態依然としている」「政治的に正しくない」とこき下ろされています。それどころか、経済的・地理的に恵まれている都会こそ「政治的に正しい」存在として称揚されているのが現状です。ある意味での「特権階級」が称揚されているのです。

よって、ポリティカル・コレクトネスが進展するほど地方や田舎が直面している地域格差は是正されないどころか、むしろ加速させられます。しかも、昨今は「投票価値の平等」という反論しにくい理由によって、地方や田舎の政治的な発言力や存在感は残酷にも削がれる方針が確定しつつあるのです。

それでは地方や田舎が自助努力によって、自らの窮状に注目や関心、もしくは共感や同情が集まるように取り組めば良いかというと、そうとも言えません。それは安易な自己責任論に他なりません。注目・共感されるのを「自己責任」にしてしまうと、共感や注目を呼びにくい属性や要素を持つ地域は永遠に取り残されるのみです。
むしろ、先述の通り、大衆の注目や関心は一種の「公共財」ですから、この分配は公正でなければなりません。言うまでもなく、「公正」というのは本人の自助努力に頼るのではなく、あくまで真っ当な基準や根拠によって基づくべきものです。公共財たる「大衆の注目や関心」を分配して、問題提起したり、差別の是正を喚起したりするのは主にメディアの責任です。もちろん、コストを重視する世論に迎合ばかりして、崇高な民主主義の理想を切り売りしようとしている政治にも、重い責務があることは言うまでもありません。そして、不本意ながら「弱者」になってしまった地方出身者が自らの境遇を認識して声を挙げるとともに、既に「強者」である都会出身者が自らの「特権」を自認する('educate yourself'する)必要もあります。
さもなければ、いまの「生まれた地域で人生が決まる」構図が強化・固定され、「地方に生まれた時点で『負け組』確定」の世のなかになってしまいます。

追記と反論:

ありがたいことに、この記事を公開してからSNSその他で多くのコメントをいただいています。以下、この記事に関する勘違いや、ご理解いただきにくい部分を補足します。

「ジェンダー平等やポリティカル・コレクトネスを叩くな」「解決策を提示しないなら当て擦りだ」

正直、きちんと読解いただいていないと感じます。この記事をどう読んだら、「ジェンダー平等やポリティカル・コレクトネスを憎んでいる」との解釈に至るのでしょうか。たとえば「田舎の女性」が置かれた苦境を解決するには地域格差の是正が必要、と指摘していますよね。【地方×女性】のようにインターセクショナルな課題を解決するには関連する両者の要素からの解決を図る必要があります。

また、ポリティカル・コレクトネスを追求する現行の議論が余すことなく地域格差を射程に収めているなら、批判していません。でも、ジェンダー平等やBLMといった格差や分断の是正を積極的に訴えているような「意識高い系」の学生と議論しても、地域格差は大して見向きもされません。むしろジェンダー平等やBLMと比べられて地域格差は軽視されるのが実情。

それに、この記事は性・ジェンダーによる差別と同時並行で解決するべき格差の問題提起が目的です。問題提起と具体的な解決策の提示はセットではないのです。むしろ、たとえばジェンダー平等のために格差を是正する責任を負うのはマジョリティたる「男性」とされているわけで、地域格差も強者たる「都会」の責任で是正するべきでしょう。
地域格差を告発して嘆くからといって具体的な解決策の提示まで求めるのは、ジェンダー平等のため女性に「自助努力」での解決を促すも同然です。

この記事は「東京が基準」「東京中心主義だ」

「東京が基準」「東京中心主義」なのは本邦の社会構造そのものです。この記事はあくまで、その構造を指摘したに過ぎません。
たとえば大手のテレビ局や新聞社、通信社は多くが都内に本社を置き、東京で編集や構成をしています。日本全国に行き渡る情報は基本的に「東京を拠点に発信される」のです。
また、日本最高峰の教育研究環境は多くの分野で東京の大学です。国立の芸術大学も東京にしかありません。企業や官公庁・在外公館が集中する東京でないと進めにくい、著しく不便な分野もあるでしょう。自分の希望する分野を極めたいと思ったら、往々にして上京するほかありません。
それに、「東京にしかオフィスがない」ような企業も多くありますよね。たとえばソニーは本社や研究開発拠点を首都圏に集中(仙台にあるのは生産拠点)させており、主要事業所は東日本にしかありません。大手金融機関のように「地方支社・支店では採用しない」ケースもあり得ます。

様々な選択肢が都会に偏在しているいま、地方に生まれると圧倒的に「夢を叶えにくい」構造にあります。それでも夢を叶えようとしたら、しんどい思いをして地域格差を乗り越えなくちゃいけない。しかし、その頃には都会で生まれ育った同級生は遙か先を走っている。
「地方には地方の人生がある」「無理して都会に行かなくても良い」というのはジェンダー平等を訴える人に「女性には女性の人生がある」「無理して男性のように生きなくて良い」と諭すようなものです。生まれ育つ場所や環境は選べない(もちろん性別その他も然り)のに、それで「茨の道」を歩まなければならない構造を指摘しているのに、「無理して楽なレーンを選ばなくて良い」というのは何の反論にもなっておらず、むしろ既存の格差を容認するも同然です。

「上京する人と地元に残る人のどっちがいても良い」

これは「論点ずらし」です。先述の通り、「地元に残る」というのが必ずしも自発的な動機に基づくとは限りません。進学や就職で上京したいのに「できない」構造が格差なのです。
たとえば都会と地方にある選択肢が質量ともに同等かつ都会と地方の移動が相互に容易(=格差が固定化・再生産されにくい)で、さらに地方出身者にとって「上京する」と「地元に残る」の両者が同等に現実的な選択肢であるいった条件が成立するなら、「どっちもいて良い」と言えるかもしれません。
しかし、実際には進学先も就職先も、「まとも」な選択肢ほど都会に偏在しています。選択肢が多い分、適切にマッチングされやすい一方で、学校も企業も選択肢が少ない地方だと必然的に「ミスマッチ」が起きやすい。すると、進学や就職に伴う都会と地方の移動ニーズは【地方→都会】の方が高いと考えられます。
また、都会と地方の所得格差も無視できません。都会と地方への移動は「先進国から途上国」のようなものですから、旅行や移住も相対的に容易でしょう。でも、逆は「途上国から先進国」ですから、ハードルが高い。よって、「都会と地方の移動」は【都会→地方】の一方通行になりやすく、「逆流」は相対的に困難なのです。
さらに、先述の通り、地方出身者にとって上京には高いハードルやコストが付きまといます。多くの場合、「地方に残る」選択肢に比べて「上京する」ハードルは圧倒的に高いのが実情です。
しかも、就職に有利な大学は都会に偏在しているし、また転職活動でも「最初の就職先」「前に勤めていた職場」が重視される実情からも、「地元に残る」と選べる将来のキャリアの幅を狭める結果になってしまいます。
よって、「どっちもいて良いじゃん」というのは実情に鑑みない無邪気すぎる主張です。

高崎市は「まだマシ」だ

確かに、私の地元は「まだマシ」だと思います。在京キー局すべて映るし、書店や映画館もあります。図書館ほか公営文化施設も県下では最も充実しています。それでも、先述の通り、文化資本や社会資本で都心との隔絶を感じずにはいられません。
それに、「まだマシ」だから何も言えないとしたら、「日本で最も恵まれなかった人しか窮状を嘆けない」となってしまいます。不毛な「不幸マウント」です。

Webがあったら格差を是正できる

道具としてWebがあったら情報格差が是正できる、というのも無邪気すぎます。
田舎の子どもはPCやWebに触れられるでしょうか。気軽に。周囲から疎まれずに。たとえば プログラミング教室は都会にあっても、田舎にはありませんよね。
また、すべての情報がWebにあるわけでもない。書籍や、就職活動のように人伝の情報は相変わらず都会が有利。それに、もしWebは「体験できる格差」を埋められません。

「地方創生」政策で地域格差は「直視」されたはずだ

楽観的すぎます。ちょっと「地方創生」が一時的に持て囃されただけで「地域格差も直視されている」と思えるなら、随分と幸せな脳内をお持ちですね。「ピントがぼけている」主張です。
ポリティカル・コレクトネスが本来、地域格差も包含しているはずである点は首肯します。でも、もし「地域格差も普通に直視されている」なら、地域格差がジェンダー平等やBLMと同等レベルで是正が叫ばれていないとおかしいですよね。 実際のところ、地域格差はジェンダー平等やBLMよりも劣後させられており、むしろ地方や田舎の「弱者・マイノリティとしての性質」は往々にして無視されています。ジェンダー平等や気候変動のように「政治的に正しい」主張を声高に訴える人の熱量が地域格差にも十分に注がれているとは、お世辞にも言えません。
それに、先述の通り、地方(出身者)はキャリアも産業も「マイナスのスタート」を強いられています。いま必要なのは「創成」という甘い言葉ではなく、もっと生々しい「差別是正」。「創成」という文言には「ゼロからプラス」とか「小さいプラスから大きなプラス」といった印象が拭えません。 でも、実際のところ、地方は既に「マイナス」の存在。まずマイナスをゼロにする「差別是正」があるべき。
さらに、地域格差はジェンダー平等や人種差別是正と異なり、「一票の格差」「投票価値の平等」といった反論しにくい理由によって、いま差別が是正されるどころか拡大すらされようとすらしています。
しかも、地方創生が話題になる少し前は「コンクリートから人へ」が叫ばれ、地域格差の是正に貢献するはずの地方への公共投資の削減が「絶対的な正義」とすらされていましたよね。ジェンダー平等や人種差別是正にブレーキを掛ける政策を提案しようものなら袋叩きに遭うのに、地域格差の拡大や地方への公共投資削減は積極的に支持すらされました。
よって、「地方創生」政策をもって「地域格差が直視されている」と結論づけるのは稚拙な過大評価だと言わざるを得ません。



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