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【エッセイ】意識高い系は「弱者の視点」を持ち得るか?: キラキラ界隈の「冷や飯食い」として「意識高い系」エコーチェンバーを考える

堀口 英利 | Horiguchi Hidetoshi

※本稿はもともと所属する「NO YOUTH NO JAPAN」部内での議論を叩き台にしたものです。加筆訂正の上、いわゆる「意識高い系」全体を考えるエッセイとして投稿します。

はじめに

TwitterやInstagramのアカウントでプロフィールに記載しているように、私は「NO YOUTH NO JAPAN」という団体に所属しています。

NO YOUTH NO JAPAN(以下「NYNJ」とします)はU30世代の投票行動や政治参加の促進を企図した団体で、Instagramでの投稿やストーリーの作成を主軸に、選挙ドットコムやForbesでの記事発信、各種イベントへの登壇といった活動を展開しています。あまり好きな言葉ではありませんが、世間ではNYNJのような団体を揶揄と、ともすれば嘲笑を込めて「意識高い系」「キラキラ系」と呼ぶことでしょう。確かに、NYNJはジェンダーや気候変動、BLM(Black Lives Matter=黒人差別撤廃運動)といった話題への関心が高いメンバーを多く抱えています。

そのなかで、私は主にNYNJ部内で防衛・安全保障や外交・国際関係に関連した投稿やストーリー(例えば毎年8月に展開している「戦争と平和」シリーズ)の作成で考証やファクトチェックを主に担当しています。残念ながらキラキラしていない、むしろ血生臭い話題が生息域です。NYNJ部内にジェンダー平等と気候変動対策に興味関心の強いメンバーは多い一方で、防衛や外交は基本的に見向きもされません(し、聞こえの良い理想論が先行して私が意見を述べても聞き入れられるとは限りません)から、まあ「昼行灯」です。

また、メンバーの約8割が女性のなかで数少ない男性メンバーとしての意見を述べたり、野党支持の風潮が強い部内で敢えて与党に近い見解で議論を補足したりと、泥臭く「議論の幅を広げる」ようにしています。出てくる意見や視点が偏ったものであれば公平公正で健全な議論は成立しませんから、敢えて「レッドチーム」「カウンターウェイト」として、幅広く考えて論点を整理できるように努めています。ただし、どうしてもNYNJ部内においては「傍流」ですから冷ややかな目線を向けられがちで、もはや私を「窓際族」と考えるメンバーも、少なくないかもしれません。

2019年8月に私がNYNJに加入してから2年以上が経ち、「冷や飯食い」としてNYNJ部内にありながら「一歩引いた」立場で活動を眺めているうちに、保守・リベラルや与党・野党のような党派制のほかにも広い意味で「世界観の偏り」が際だってきたように感じています。

特に、8月から10月にかけて、ロンドンへの出発に先立って東京から離れて地方を訪れるたびに、その「世界観の偏り」を実感するようになりました。併せて、NYNJは先の衆議院議員総選挙においてU30世代の投票行動や政治参加の拡大に向けて活動した結果として、「ズレた」認識を露呈してしまったし、これでは「U30世代の投票行動や政治参加の促進」の目的を達成できないと感じています。

また、この狭窄な視野や欠落した視点によるエコーチェンバー現象はNYNJに限らず、いわゆる「意識高い系」界隈の全体に共通している可能性が高いと感じられたので、自戒も込めつつ、敢えて広くシェアします。

1. 我々は「特権階級」で、そこに胡座をかいていないか?

先日は北海道旭川市を拠点に、名寄市、留萌市や上富良野町へ。いわゆる「道北」とされる地域の一部。約33万人の人口を要する旭川市を除けば、道北地域に人口5万人以上の街は存在せず、コンビニエンスストア(往々にしてセイコーマート、たまにセブン-イレブン)が数十km間隔で配置されるほど。

その前は青森県三沢市へ。4万人弱の人口の約25%を米国軍人・軍属が占める「基地の街」。経済や産業を米軍と自衛隊の三沢基地に依存。

両市ともに同行してくれた友人(旭川市内の高校を卒業、慶應義塾大学を経て東京大学大学院)は「同級生では高校卒業がスタンダード、大学に進学する同級生は限られる」と述べていました。確かに、旭川市内に大学は存在するものの、例えば法学部を擁する大学はなく、選択肢が充実しているとは言い難い。そして、三沢市に大学は存在しません。両市とも小中高校や進学塾も選択肢が豊富とは言い難いし、仮に都心部への大学進学で1人暮らしするとしてもまともな(実家から通学している同級生から見劣りをしない、学業も課外活動も充実した)生活をしようと思えば家計には追加で月額10-15万円の負担を要します。

自分自身も、地方(群馬県高崎市)の出身ですから、東京にある大学に入ったときは父親の無理解もあって幾多の苦労がありました。

誤解を恐れずに言えば、例えば大学――特に、いわゆる「Fランク大学」ではない、ある程度は自由にキャリアを描ける大学への進学のハードルって、「都心と地方」と「男性と女性」で敢えて比較するなら、もちろん後者を否定するわけではないものの、圧倒的に前者での開きが大きいでしょう。

もっと言えば、受験勉強で有利になる学習塾・予備校や、人格形成期に質の高い文化資本や社会資本を得られる中学校・高校や中等教育学校・中高一貫校は地方だと選択肢が限られます。むしろ存在しない地域の方が多いでしょう。さらに、AO入試や就職活動で志望動機書やエントリーシートに盛り込める「質の高い体験(留学、インターンシップやボランティアほか)」は地方になかなか転がっていません。

以前にNYNJ部内で「地方出身者や難病患者もマイノリティとして考慮するべき」と述べたら、「歴史を考えれば女性や米国における黒人と比較してはいけない」と言われたことがあります(そもそも比較する意図はないのですが)。しかし、やっぱり現実を考えれば地方も「マイノリティ」と考えるべきだし、さらに言えば都市部の出身者や在住者の「特権」は確実に存在しています。

NYNJ部内Slackの自己紹介チャンネルを見ると、都市部出身者・在住者のメンバーがほとんど。試しに、例えば「北海道」でチャンネルをワード検索しても出身者がヒットしませんでした。そう考えると、少なくとも例えば地理的な観点からNYNJには「特権」を有しているメンバーが多いと言えます。

また、ここでは議論の切り口として「都市と地方」を挙げたものの、他にも例えば性別的、経済的、時間的、肉体的、精神的、環境的要因を始め、マジョリティ・マイノリティの軸は社会にいくつも存在します。そして、メンバーを見渡すに、たとえ何かの軸においてマイノリティ(例えば女性)たり得ても複数の軸でマジョリティに位置づけられる人々(例えば都市部出身者、ある程度は裕福な家庭、私立中高一貫校卒業、留学経験……)によってNYNJは構成されています。その上で、自らの優位性に無自覚であるばかりか、その優位な軸において劣位にある人たちの視野を持てていないように感じています。

はたしてNYNJメンバーの周りに、例えば「中卒や高卒で働いている」「日本から出たことがない」「油や泥に塗れて汗を流している」人たちがどれほどいるのか。北海道で牛を飼っていたり、九州でマグロ漁船に乗っていたり、自動車工場で期間工をしていたりする人たちも、また有権者であり、年齢次第では「U30」のはず。しかし、こういった方々の「リアル」に、NYNJ部内を見る限り、各メンバーが想いを馳せられているとは到底思えません。その証左が地方出身者や難病患者に関する「歴史を考えれば女性や米国における黒人と比較してはいけない」との空虚な反論でしょう。

地方の窮状を想像できない、理解しようともしない態度。難病患者すら「マイノリティ」として尊重しない姿勢。昨年の安倍晋三さん辞任に際して、あるNYNJメンバーが「やったー!」と歓喜して「病気で逃げた!」と嘲笑していた光景は未だに忘れられません。彼らにとって「マイノリティ」「多様性」とは何なのか。安倍さんと同じ潰瘍性大腸炎の患者として、血便で赤茶色になったトイレットペーパーを前に、ただ考えさせられます。

誤解を恐れずに言えば、同性間の絆や関係性を指す「ホモソーシャル」のような事象が、性別以外の軸(経済的、時間的、肉体的、精神的、環境的要因ほか)における特権階級のなかで成立して、批判や指摘に対して相互に擁護し合っている構図を感じ取れます。

我々は何らの観点で一定程度は「特権」を有しているなか、その「特権」に大半のメンバーは気づけていないし、このまま議論や活動を進めても我々の言葉はその「特権」を持たないU30に響くのだろうか?と考えさせられました。

2. 自分たちとは異なる属性の人たちに想いを馳せない議論は「特権ありき」すぎるのではないか?

都心部と地方部では文化も情報も、経済活動も違いすぎます。例えば地方にアフタヌーンティーを楽しめるホテルなんてないし、地方の人たちは東京に来るために交通手段を乗り継いで時間とお金を掛けないといけない。都心部の若者は気軽に(学校帰りでも、なんなら毎日でも!)例えば渋谷や原宿で遊べる一方で、地方では週末に郊外のショッピングセンターが精いっぱい――いや、そもそも商業施設があるだけマシかもしれません。

分かりやすい例として娯楽やファッションを挙げたものの、この隔絶は例えば社会課題や政策への問題意識でも同じでしょう。だから、地方でジェンダーや気候変動への意識が低いとしてもそれは(現状のままで良いかはともかく)ある程度やむを得ない部分を否定できないように思えます。

例えばNYNJ部内ではGo toキャンペーンが極悪非道の政策かのように批判されていました。しかし、例えば私が先日に訪れた旭川空港は中国や韓国からの国際線が運休、東京や大阪からの国内線も減便。旭山動物園への観光客で成り立っていた現地の観光産業は明らかに苦境を迎えているし、市内の繁華街も金曜日の夜(いわゆる「華金」)なのに人っ子一人いませんでした。裾野が広い観光産業の実態に鑑みるに「直接給付」もおよそ実効的とは言い難いなか、地方の窮状への想像力を欠いた議論は、およそ「地に足が着いている」とは言い難いように感じます。

また、気候変動に意識が高い方々に「飛行機の利用を抑制すべき、代わりに鉄道やEVを使おう」との議論(いわゆる「飛び恥」)もある一方で、例えば北海道では鉄道の採算が取れず、廃線や廃駅が相次いでいます。しかも、電気で走る「電車」はなく、ディーゼル・エンジンの「汽車」しかない地域もあります。そんななか、例えば「気候変動対策として飛行機を使わない」としたら、その地方の人たちは気軽に遠出できない(=都心部の文化資本や社会資本を微塵も得られない)し、観光客も呼び込めません。

それに、街の間が数十kmもあるなか自動車での移動は時間が掛かりすぎるし、かなりのガソリンを消費します。我々も僅か約23時間の道北滞在で約460kmも走行して、燃費が良いのはずのセレナe-POWERのガソリンタンクを空にしてしまいました。地方だと都心に比べて所得も低いため、「エコカーに買い換える」ハードルも相対的に高い。というか、そもそもTESLAのスーパーチャージャーも、水素ステーションも、北海道内にはほとんど存在しません。そんな地域の人たちに「鉄道を使おう」「EVに乗ろう」と気候変動対策を説いても実践が困難だし、その現状に鑑みない議論に耳を傾けて貰えると考えること自体に無理があるように思います。

他にも、例えば主要産業が農業をはじめ労働集約型産業とか、自衛隊員が多いといった街ではやっぱり男性が力を持ってしまう。それでも女性が虐げられたり見下されたりすることは決してあってはならないわけで、この実情に基づく認識や空気を、どうやって改善すれば良いのだろうか。少なくとも「女性の活躍」の重要性を理解して貰えるように、ともすれば具体的な利益を示してでも、その意義を辛抱強く説得しなければしなければならないはずで、やはり必要なのは俯瞰的な「啓蒙」でも喧嘩腰な「闘争」でもありません。

もっと言えば、産業構造や交通網が貧弱な地域であればあるほど、東京からお金や産業を持ってこないといけない切実な事情があるわけで、その場所に住む有権者たちが「永田町で活躍しそうな」政治家を選ぶのは、もはや必然。だから、たとえ明らかに腹黒そうであっても、旧世代的な主張や思想の持ち主でも、選ばざるを得ない――というか、「強い政治家」を国会に送り出さないと、その地方が衰退しかねないとの危機感があっても不思議ではありません。そして、そういう政治家は永田町の現状(これから変わるべきだとしても)に鑑みるに、往々にして男性(もしくは「女性のための」政策を推進するとは限らない女性)になってしまう。例えば田中角栄が選ばれたのは「裏日本」と蔑称された新潟において男性が出稼ぎに行かなくて済むには彼のゴリ押し的な開発主義が必要とされていたわけでしょう。たとえ三国峠をダイナマイトで爆破してでも、新幹線を無理やり引っ張ってでも――。

だから、「ジェンダー平等が大切だから女性の政治家を増やそう」といっても、その女性候補者がその地域にお金や産業を持ってこられないなら、その地域の有権者は、少なくとも永田町の現状が変わらないうちは生活のために「男性的な」政治家を選ばざるを得ません。逆に、「女性のための」政策を推進しながらであっても、お金や産業を持ってこられるなら、男女関係なく当選するでしょう。例えば、田中真紀子さんが選ばれたのは「女性だから」ではなく明らかに「あの田中角栄の娘だから」だし、有権者に見限られたのも「女性だから」ではなく「お金や産業を地元に持ってこられるだけの政治力や影響力がない」と判断されたから。困窮している地方や人々ほど「全国的なジェンダー平等」の優先順位は絶対的にも相対的にも下がらざるを得ない。そんな状況の人たちにジェンダー平等を説いて「女性の政治家を選べ」と迫ることが正しいとは、どうも思えません。

しかし、Go toキャンペーンのような政策でも、気候変動対策やジェンダーといった社会問題でも、無邪気に議論を交わす都市部エリートたちから、遠い地方の実情を見つめて考えている気配は感じ取れません。少なくとも、NYNJ部内からは。この実情を「視野狭窄」「特権ありき」と言わずして、何と言うのでしょうか。そんな体たらくで、私たちの言葉はきちんと届き、響くようには思えません。だからこそ、我々は自分たちを見つめ、自らの「特権」に気づき、積極的に視座を広げる努力を怠ってはならないし、その上で見知らぬ人たちの意見や実情を謙虚に受け止める姿勢を持たなければならないはず。

3. マイノリティ・マジョリティって何だろう。我々は「目に見えるもの」ばかりで判断していないだろうか?

仮に地方に住む人々が「マイノリティ」だとして、彼らは「不幸な人生」を歩んでいるのだろうかというと、やはり必ずしもそうでないように思えます。一方で、都市部で生まれ育って「マジョリティ」なら絶対に幸せかというと、そうとも限らない。仮にジェンダーの議論に当てはめるなら、女性だから全員が不幸な人生というわけでも、男性だから全員が幸福な人生というわけでもない。

なぜなら、マジョリティとマイノリティの軸は社会にいくつも存在するわけで、それは例えば性別やジェンダーだったり、学歴だったり、地域格差だったり、人種や民族だったり、経済格差だったり。NYNJではジェンダーへの興味関心が強いメンバーが多く、性別やジェンダーに基づく問題が特にフォーカスされがちなものの、やはりそれ以外の「軸」にも目を向ける必要があるように感じています。

この社会では多くの人――もちろん、必ずしも全員ではない――が何らかの軸や形で、ある側面ではマジョリティだし、別の側面ではマイノリティのはず。例えば、私は性別やジェンダーの観点で男性としてマジョリティながら、地方出身とか難病(潰瘍性大腸炎)患者という意味ではマイノリティ。逆に、NYNJメンバーの多くは女性で性別やジェンダーの観点ではマイノリティでも、例えば先述の通り都市部出身者・在住者が多く、そういう意味では「マジョリティ」たり得る。

さらに述べるなら、大半のメンバーが大学(院)に在学していたり大学(院)を卒業・修了していたりしている時点で、学歴の観点からは日本社会の上位半分。現代の日本において、保護者の協力や理解がなければ大学(院ならなおさら)進学は難しいし、そういう意味で(少なくとも相対的には)「恵まれている」メンバーが多いはずです。それに、例えばいじめを苦に自殺してしまっていたら生きていないはずだし、不登校になっていても高校や大学への進学で困難を伴います。だから、ある意味での「強者」もしくは「サバイバー」でしょう。

要するに、NYNJは社会全体で「都市部のエリート」「一定以上の所得」に位置づけられるメンバーで構成されて(しまって)います。というか、お金も時間もなかったらNYNJなんてやっていられないわけで、NYNJメンバーという時点で一定程度は相対的に恵まれているよね、とも。しかし、メンバーのうち女性が約8割・男性が約2割という実情からもNYNJにジェンダーや性別の議論に興味関心のあるメンバーは極めて多い一方で、学歴や地域での格差について日頃から積極的な議論は交わされていません。Slackの雑談チャンネルで問題提起するメンバーは私くらいだし、たまに投稿してもほとんどリアクションがありません。つまり、自分たちの境遇に興味関心は強い一方で、異なる属性(例: 地方、非エリート、貧困・格差)に想いを馳せられていない。仮に意識があるとしても「強者の慈悲」。

ジェンダーやBLMの文脈において、マジョリティ(男性や白人)に「特権」の自覚を求めてeducate yourselfと叫ばれることがあります。NYNJ部内でも議論されています。ならば、その我々こそ、別の基準や定義での「特権」に自覚的であるべきなんじゃないだろうか。別の基準や定義での「特権」に自覚的でないまま、他の人に「特権」の自覚を迫っても矛盾でしかない。それでは説得力を持てない。しかし、ジェンダーや性別に限らない観点での「マジョリティ」「マイノリティ」についても議論する必要があるはずなのにattentionが向けられることは少なく、その一方で中高年男性がとにかく大雑把に「オッサン」として叩かれ、私が咎めても(※)「社会が変わるための痛み!」と擁護している光景に、我々は何をもって「マジョリティ」「マイノリティ」判断をして、興味関心を向けているのだろうか?と考え込んでしまいます。

(※)補足: 人事院規則によると、「おじさん、おばさん」といった呼称は「性別により差別しようとする意識等に基づくもの」として、【セクシュアル・ハラスメントになり得る言動】に該当します。また、「(中高年)男性だから」と罵ったり叩いたりすること自体、性別を理由に不利益を与えているわけですから「性差別」でしょう。
https://www.jinji.go.jp/kisoku/tsuuchi/10_nouritu/1032000_H10shokufuku442.html

それは外形的な判断可否――誤解を恐れずに言えば、多くの場合において(重要)男性や女性は外見が異なりやすいし肌の色も判別しやすい一方で、学歴や出身は言われないと分からないし常に意識できない――なのか、それとも社会的な認知度や追跡可能性なのか。いずれにしても、あらゆる意味での「見えやすさ」がattentionの有無や大小と紐付いているように思えます。でも、それだと可視化されていない・されにくい、もしくは研究が進んでいないマイノリティは永遠に救われない。「マイノリティ」の定義や意味をもっと広く捉える必要があるように感じます。

また、「当事者性があれば、それで良いのか」とも考えなければなりません。1890年の第1回衆議院議員総選挙から、常に地方部選出の議員は国会に存在し続けてきたし、むしろ都市部選出の議員は国会で少数派でした。歴代内閣総理大臣を見ても、東京都や大阪府といった都市部出身者は決して多くはありません。憲政史上、国政の場において地方出身者は「ある意味でマジョリティだった」と形容して差し支えないでしょう。

確かに地方選出の議員の旗振りで、地方に空港や高速道路は整備され、産業や工場は誘致され、全国で人口もGDPも増えました。でも、いまも結局はあらゆる局面で都市部は優位だし、格差が是正される気配はありません。例えば内閣総理大臣を多く輩出している山口県、岩手県や群馬県も平均年収が特に高いわけでもない。つまり、国会において当事者が存在しているどころか、むしろ彼らがマジョリティであっても問題は解決されていません。

ここで、仮に国会で女性や若者の比率が増えたとして、本当に性別やジェンダー、もしくは世代間の格差は確実に解決されるか?との疑問が生じます。もちろん、当事者性のある議論が進展することに意義はあるものの、女性議員でも必ずしも「女性のための」政策を推進するとは限らないわけで、無邪気に当事者性を増やす以外の施策も、併せて考えなければならないように思えます。併せて、どんなに当事者性を持ったところで覆せない「限界点」「妥協点」を見定める必要も、残念ながらあるでしょう。

さらに、当事者性があってもすべての当事者を代弁できるわけでもありません。例えば「地方」の議論なら、いわゆる「1区現象」のように、同じ都道府県でも地域や選挙区によって利害や視点は異なるでしょう。確かに、政令指定都市として栄えている札幌市と、人口が数万人の市町村では同じ北海道でも直面している事情は違う。もっと言えば、同じ市区町村で違っても不思議ではありません。また、例えば同じ農村部でも、内需に依存する米の街と、輸出産業たるフルーツの街では政治的な意見が違ったとしても無理はありません。川の東側と西側、山の北側と南側で政治色が異なるかもしれません。つまり、日本全国に「細かなモザイク模様」が存在するわけで、本来は「地方」と十把一絡げにもできません。

私がこの記事の叩き台になった議論をNYNJ部内のSlackで投稿したら、別のスレッドで当てつけの如く「みんな地元を出ているよね」との投稿がありました。しかし、それは地方の実情を理解できていない証左です。同じ都道府県でも、同じ産業構造でも、利害や視点は異なるのですから「地方出身ならそれで良い」とするのは地方の実情を理解できていないと吐露しているも同然。自戒も込めて述べるに、ジグソーパズルのピースをいくつか拾っただけで全体像を理解した「つもり」になっているだけです。

それに、そもそも、この議論は地方格差だけの話じゃありません。入口は「地方」ながら、我々のメンバー構成が複数の軸において偏在しているなか、あらゆる軸において「自らの立ち位置を知る」「他者の実情や立場を知る」上で議論を進めることが我々全体としても、メンバー個人としても求められるのではないか、との問題提起です。切り口になっている「地方」に引っ張られた当てつけは「反論」たり得ず、もはや当事者性のみならず読解力の欠如を自ら証明しているに他なりません。

この体たらくで、自分たちと属性が異なる人たちの意見と、どうして真摯に向き合えようか。これでは無意識に「パンがなければケーキを食べれば良いじゃない」みたいな議論を進めかねません。例えば北海道民に「TESLAのスーパーチャージャーがなければ水素ステーションを使えば良いじゃない」と言ったら嫌味でしかないし、両親からの虐待やDVを受けた・受けている人に「父親がいないなら母親を頼れば良いじゃない」なんて言ったら怒られますよね。

もちろん真の意味で「当事者性」を身につけるための努力は欠かせないし、その上で、いまは感染拡大防止の観点から難しいとしても、いろいろな人たちの話を聞き、各地の実情に触れ、切実な現状を見るためにも全国に足を運ぶ努力を怠ってはいけないはず。「ある意味でのマジョリティ」としての立場や発信力を活かしつつ、「当事者への想像力」を得る・働かせる姿勢こそ必要でしょう。つまり、我々がきちんと広く言葉を届けて響かせるためには「我々自身が無知・無力である」「我々自身のマジョリティ性・マイノリティ性(ともすれば加害性と被害性)」を自認・自覚した上で、別の視点への想像力を得る・働かせる謙虚な姿勢が必要、と確信します。その観点からの問題提起だし、メンバーひとりひとりがこの論点を考える必要があると思います。しかし、いまのところ、その謙虚な姿勢が根付く気配を、残念ながら感じ取れません。
※団体としてのアクションがどう、というより個人個人で「無知の知」を認識して、その上で行動して得たものを1人1人が持ち寄って集合知に昇華させる必要があるよね、ちゃんと考えないといけないよね、ということです。

4. ハフポスト×NO YOUTH NO JAPANのアンケートで露呈したいわゆる「意識高い系」と全国U30実態との「乖離」

NYNJはハフポスト(旧称: ザ・ハフィントン・ポスト)日本版と合同でU30世代に「特に積極的に取り組んでほしい社会課題」を調査しました。

その結果、NYNJ代表の能條桃子がTwitterで述べたとおり、「ジェンダー平等(選択的夫婦別姓など)」がトップに躍り出ました。

確かにジェンダー平等は重要です。当事者には切実でしょう。しかし、このアンケート結果に、どうも私は強い違和感を抱いていました。まず、男女での賃金やキャリアの格差ではなく選択的夫婦別姓が例示されている点。次に、LGBTQと切り離され、根底にあるバイナリーなジェンダー感が露呈している点。結局、彼らにとって「マイノリティ」「多様性」とは自分が当事者(例:女性)のときは「差別解消」と言いながら相手(例:男性)を蹴落とすための口実で、当事者じゃないとき(例:LGBTQ)は「慈悲深い振る舞いをしている素敵な自分」を演出するための道具や舞台装置になっている現状を指摘せずにはいられません。

また、アンケート結果では「格差是正・貧困問題」や「教育全般・学費の負担軽減」「働き方・就職」が下位。つまり、【お金、学歴や地域で恵まれた=格差や貧困に直面していない・学費や就職の心配をしなくても済む】回答者が多かったということでしょう。

社会全体で「都市部のエリート」「一定以上の所得」に位置づけられるメンバーで構成されているNYNJにとって、格差・貧困や学費、就職といった問題はどうしても「対岸の火事」「強者の慈悲」になりがちです。当事者性がなく、必然的に興味関心も薄い。

それに、保守系メディアのドラッジ・レポートへの対抗として設立された経緯を持つハフポスト自体がリベラルな存在で知られ、どうしても「意識が高い」「地に足が付いていない」論調になりがちです。だから、ハフポストの読者層に偏在が見られるのも無理はありません。

つまり、このアンケートの実施主体であるハフポストおよびNYNJそのものが偏った属性を有しており、その調査結果も必然的に偏重した、と考えざるを得ません。道頓堀で「最も好きな野球チーム」を訊いて回って、「阪神タイガースが人気トップ!」と結果が出たようなものです。

そして、実際に他社の出口調査の結果により、「U30世代はジェンダー平等を最も重視している」との言説が覆されました。日本テレビを中心とするNNNの出口調査によると、最も重視した政策として、10代は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)への対応、20代は景気対策として答えた割合が最も多くなっています。確かに、若い世代ほどジェンダー平等の推進を挙げているものの、残念ながら「最も重視した政策」として最大のシェアには至っていません。

調査チャネルの限られるハフポスト×NYNJのアンケートよりも、各地に支局を配置しているNNNの出口調査が正確性や網羅性で勝ることは疑うまでもなく、やはりハフポストやNYNJが世論と大きく乖離して(しまって)いる現状は否めません。

しかし、能條代表のツイートを見る限り、その偏在・偏重や乖離を自覚している様子はありません。だから、無邪気に「ジェンダー平等がトップ!」と喜んでしまう。自らの立ち位置を客観的に評価できず、自らの主義主張が世間を席巻していると誤解してしまうなら、それは「エコーチェンバー」以外の何だと言うのでしょうか。

実際に、能條代表は朝日新聞デジタルのコメント欄において、本多平直 前衆議院議員が刑法改正の議論において「50代の私と14歳の子が恋愛した場合に罰せられるのはおかしい」と述べた事例を引き合いに、「同世代の友人たちと話すと(中略)もっと広く当たり前の感覚でこの発言・行動が問題だと受け止められている」と述べています。しかし、この記事で政治学者の岡田憲治さんが述べているように、この議論は「限界事例」を視野に入れた議論の必要性を訴えたものであり、その検討は健全な近代刑事司法においては必須と言えます。さらに、立憲民主党の調査報告書は内容が杜撰で、しかも本多さんは党内で「二重処罰」を受けました。このファシズムとも言える「恐怖(党内)政治」への根強い批判は以下のnote記事でも見られるなか、「自分たちの周りでは問題だ」との見解に至るなら、それは異なる意見を目に触れる機会が欠如しているか、仮に目に触れていても(ともすれば意図的に)無視しているだけでしょう。まさにエコーチェンバー現象です。

もっと言えば、健全な近代刑事司法を維持するために必要な議論すら「問題」と切り捨てる感覚自体も、およそ「法の支配」や「基本的人権の尊重」といった普遍的価値に著しく反しており、もはや何のために例えばジェンダー平等を推進しているのかすら理解ができません。ジェンダー平等が「人権」を擁護・推進するための取り組みなら、健全な近代刑事司法も別の観点から「人権」を尊重するための制度であり、これらは等しく重要で、ともに現代社会には欠かせません。その前提すら共有できないなら、やはり致命的なレベルでの「現代市民社会との乖離」を指摘できます。

誤解のないように述べておくと、私自身もジェンダー平等は強く推進するべきだと思うし、本多さんの議論が批判の槍玉に挙げられた性的同意年齢の引き上げの議論にも概ね同意です。ただ、その議論は慎重を期すべきだし、その過程において別の人たちの人権が踏みにじられてはいけないとも確信します。

話を戻すと、本多さんを擁護するロジックや主張もあるなかで、そこに目を通すことなく「自分たちの周りでは問題だ」と主張できるなら、それは異なる意見に目を通す機会がないか、目を通していても無視してしまっているエコーチェンバー現象が存在してしまっている、というです。

そのエコーチェンバーをがハフポスト×NYNJのアンケート結果で露呈していることは、もはや論を俟ちません。

もっと言えば、これはNYNJだけの問題ではなく、近似した活動をしている、いわゆる「意識高い系」界隈全体に共通していると感じます。だから、本来ならSlackに投稿してNYNJ部内で考えれば良いはずの内容をエッセイとして加筆訂正の上、広く公開するに至りました。

おわりに

長くなってしまいましたが、これらの論点に向き合わないとNYNJは単なる「エコーチェンバー」に留まるだけだし、我々の言葉は一部の人たちにしか届かない、響かないままだと感じます。自らの特権への無自覚と、自分たちで議論も視野も完結させて異なる意見に触れようとしない不遜な姿勢でどうして、自分たちの主張を全国の若者に浸透させられようか。

そして、いわゆる「意識高い系」と揶揄・嘲笑される人たちが「空回り」と批判され、社会全体との隔絶が生じている理由も、ここにあるような気がします。自らの意識ばかりが先行して、いままでの人生で接点がなかった人たちや自分と異なる属性への想像力を欠いている。つまるところ自分たち内輪の殻に陥っている構図そのものです。これで自らの意識を浸透させ、目的を達成できると思っていること自体、やはり大きな間違いなのです。

正直に申し上げて、このnote記事の公開はかなり迷いました。私のような異端者の存在を2年以上も許してくれているNYNJを批判することに、やはり躊躇いはありました。しかし、U30の投票行動や政治参加の拡大を企図して、衆議院議員総選挙という大きなプロジェクトを手掛けたいまだからこそ、自分たちに耳の痛い話であっても正直に述べる必要があると感じています。それはNYNJが嫌いだからではなく、好きだから。掲げているミッションに公益性を感じるからこそ、その達成のために必要な批判は声を大にして述べておかなければならないと確信します。

もし、このnote記事を理由に人事上の不利益を被るなら、それはNYNJが異端者を取り除く「多様性のない組織」であると自ら証明するも同然です。つまり、私がこのnote記事で述べたことが完全に図星ということです。だから、衆議院議員総選挙を終え、その熱も冷めやらぬタイミングで警鐘を鳴らせるのであれば、これで私がNYNJを辞めることになっても構いません。これが私の「最後のご奉公」ということで、進退をもって警鐘を鳴らしましょう。

一方で、このnote記事を公開してもなお、私がNYNJでの活動を続けていたら、NYNJが「批判を受け入れる余地のある組織」である証左です。だったら、なおさら批判は言語化して書き記しておく必要があるはず。それが「レッドチーム」「カウンターウェイト」としての務めでしょう。

来年は参議院議員選挙を控えています。NYNJの初めての活動の舞台は2019年の参議院議員選挙でした。3年ごとの参議院議員選挙は今後もNYNJにとって、活動を中期的なスパンで活動を振り返るマイルストーン、定期的な節目になるでしょう。それまでに今回の衆議院議員総選挙での失敗を直視して、自らの特権と無知を自認・自覚した上で、別の属性や視点への想像力を得る・働かせる謙虚な姿勢がなければ、我々は「エコーチェンバー」からの脱却を図れません。そうしなければ自分たち内輪の殻に留まるままだし、結局は「都市部のエリート」「一定以上の所得」といった「ある意味でのマジョリティ」による「独りごと」から転換できません。このままで私たちの主張がU30世代全体に響くことは、永遠にないでしょう。

「NO YOUTH NO JAPAN」は名前の通り、U30世代の投票行動や政治参加の促進のために、日本全国を活動の射程に収めようと活動しています。言うまでもなく、日本のU30世代を構成するのは「都市部エリート」「一定以上の所得」の人たちだけではありません。私たちが投票行動や政治参加を促すべきU30世代は地方にもいるし、非エリートかもしれません。貧困や格差に喘ぐ若者もいるでしょう。彼らに「強者の慈悲」としてではく、対等かつフェアな視線をもって接して向き合わない限り、私たちの声は届かないし、響かない。さもなければ「我々はこの3年間で定量的に肥大化した一方で、定性的には成長していない」と言わざるを得ません。

「U30世代の投票行動や政治参加の促進」とのミッションに強く共感するからこそ、敢えて苦言を呈するとともに、改善を強く求めたいと願います。


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【エッセイ】意識高い系は「弱者の視点」を持ち得るか?: キラキラ界隈の「冷や飯食い」として「意識高い系」エコーチェンバーを考える

堀口 英利 | Horiguchi Hidetoshi

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