ネオ東京

この期に及んでリモートワークとかことさらに言う奴とは遊ばなくていい


僕は人と同じことをすることが大嫌いだった。昔から。


以前にも同じことを書いたような気がするが、親を含めた親から言われることで一番イヤだったのが、

みんなきちんとしているでしょ。

とか、

みんなやっているでしょ。

という言葉だった。みんながやっていることを理由として自分が同じことをやる理由に納得ができなかった。

一方で、ごく一部の友人がファミコンを買い揃えていった時には「ダメなものはダメ」でなかなか買ってもらえなかった際にも似たようなことを言われた。「他の子は持っていないでしょ」と。

他の子がどう考えるかについては分かりようもない。一方で、僕は論理的に、いや直感的にそれが理由になっていないことについて、自分に嘘をつくことはできなかった。


そして、これが僕の生き方になった。


集団行動が本当に嫌いで、文化祭や体育祭、マラソン大会、親に強要されたボーイスカウトなどは最悪の気分で迎え、参加しているならまだしも、拒否してドロップアウトすることもしばしばあった。益子という姓の女性の先生を泣かしたこともある(すいません…)。


そんな僕を受け入れてくれた、というよりも僕自体がそこにいることが自然であった場所が、駅前にあった西友の最上階にあるゲームセンターだった。

学校が終われば毎日のように通った。お金がなければゲーム機で遊ぶことはできないのだが、お金がなくても通った。そこに友達はおらず、いつも行けば声を掛け合うような知人もいなかった。それでも楽しかった。

ゲームで遊べなくても、上手い人がプレイしているところを後ろや横から覗き込めば、彼と一緒にその仮想空間の中に入り込むことができた。プレイしている彼の気持ちを、僕なりに感じて、僕なりのアレンジの彼になることができた。既に物語は始まっていた。

西友のエスカレータを降りる時、とても寂しい気持ちになった。映画の大作を観終わった時のような、カタルシスと言ったら良いのだろうか、興奮が冷静に収まっていくような気持ちになった。

それでも僕らは諦めない。

家に帰れば余韻をかき集め、自分なりの物語を再構成していった。西友の6階、あの独特のドロップアウトした孤独な人間が、はからずも人恋しく集まり、そのすえた匂いを嗅ぐことによって自らの存在を確認する、全盛期のSEGAが支えたあの場所のリアリティを頭の中で編み上げていく。


恐怖のウイルスが来ているのだから、人に迷惑をかけてはいけない。そんな今だからこそリモートワークだ。イノベーションだ。働き方を変えるんだ。

小さい頃、僕が大嫌いだった学級委員的な言葉がその獰猛な翼を広げてバサバサとやってくる。

本当に五月蝿えなと思う。ああ、ここに西友の6階があれば良いのになと思う。360度筐体で一世を風靡した”アフターバーナー”を遊ぶ人の横で、僕もF-14で甘美な危険と隣合わせのアオゾラに離陸できるのにな、と。


CDは20kHz以上の音をカットしている(いわんやMP3をや)。アナログレコードにはもちろんそれはない。人間の耳は20kHz以上を”音”として聴くことはできないと科学的に証明されている。

一方で僕が知っている限り、音楽が好きな人間でアナログレコードの音よりもCDの音の方が”良い”という人は一人もいない(信じられなければ自分の近くにいるターンテーブルを持っている人の家に行って聴き比べてみればいい)。これはどういうことなのか。

人間の耳が”音”として聴くことができなかったとしても、人間の身体はその”振動”を、その他すべての感覚で感じているのではないだろうか。”音”や”光”は全て波であり、波というのは物体が振動するということだ。物体の振動は、僕とあなたの間にある媒体を伝わり、あなたの振動は確実に僕のところまでやってきて、そして僕そのものに伝わるのだ。

動物的で官能的じゃないの。



このリアルな共振を感じたことがない優等生たちが言うところの”リモートワーク”とか”デジタル化でイノベーション”という言葉を信じてはいけない。

なぜなら、彼・彼女たちはドロップアウトしてカオスに両足を突っ込んで、孤独の中で人とグチャグチャになるエグみのある快感を知らないつまらない人間たちだからさ。


そんなつまらない奴らとはさっそく縁を切って、いつも通り汚い街に繰り出そう。たぶん予想通りにならないことばかりだけど、それってよっぽど素敵なことじゃない?

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