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昨日の事を後悔したければ後悔するがよい、いずれ今日のことを後悔しなければならなぬ明日がやってくるだろう。

今日は、小林秀雄「人生について(私の人生観)」から心が震えた文章を抜粋。以下の文章は小林が宮本武蔵の独行道のなかの一条に「我事に於いて後悔せず」と書いてあるのを見て、その心やいかにと批評している文章である。

少し説明

「後悔してもいい」「立ち止まってゆっくり休んで」そんな穏健な言葉が飛び交う今を生きている人にとって、表題のような意表を突かれかような格言に触れることは極めて稀であるし、なんだ事へりくつ派と感じてしまう人も多いかも知れない。しかしながら、少なくとも僕は、この昔の偉大な人と呼ばれる人が絶え間ない考察をもとに、血肉をこめて誰かに伝えようとして書いた文章がへりくつだとはみじんとも思わない。失礼だ。1つ、ここで実験的に、この人に会うと背筋が伸びて緊張してしまう、そんな強面の先生を想像をして欲しい。あなたはその先生のことをとて信頼してし、尊敬もしている。至らない行動をしたらすぐさま叱りつけてくれる様な存在。信頼感と緊張感がいりまざるようなそんな人に対峙したとき。その面持ちで文章に向かい合うような体験を一度してみてもらいたいと思う。きっとバイアスが外れて素直に言葉を噛しめられるはずだ。

さて、もう一度、以下の文章は小林が宮本武蔵の独行道のなかの一条に「我事に於いて後悔せず」と書いてあるのを見て、その心やいかにと批評している文章である。

この言葉は勿論一つのパラドックスでありまして、自分はつねに慎重に行動していたら、世人の様に後悔などはせぬという様な浅薄な意味ではない。今日の言葉で申せば、自己批判だとか自己精算だとかいうものは皆嘘の皮であると、武蔵は言っているのだ。そんな方法では、真に自己を知ることは出来ない、そういう小賢しい方法は、むしろ自己欺瞞に導かれる道だと言えよう、そういう意味合いがあると私は思う。
 昨日の事を後悔したければ後悔するがよい、いずれ今日のことを後悔しなければならなぬ明日がやってくるだろう。その日その日が自己批判に明け暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会う事はない。別な道が屹度あるのだ、自分という本体に出会う道があるのだ、後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、そういう確信を武蔵は語っているのである。それは今日まで自分が生きてきたことについて、其の掛け替えのない命の持続感というものを持て、という事になるでしょう。
 そこに行為の極意があるのであって、後悔など、先だ立って立たなくても大した事ではない、そういう極意に通じなければ、事前の予測も事後の反省も、影と戯れるようなものだ、とこの達人は言うのであります。行為は別々だが、それに賭けた命はいつも同じだ、その同じ姿を行為の緊張感の裡に悟得する、かくの如きが、あのパラドックスの語る武蔵の自己認識なのだと考えます。これは彼の観法である。認識論ではない。


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