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研究者になると決めたきっかけ

2004年。私は早稲田大学大学院の修士1年(23歳)だった。産業技術総合研究所に学生研修員として研究を行っていた時代、私は遺伝子を調べるための新しい方法の開発に携わっていた。

当時の開発メンバーは、以下の通り。私以外、みんな博士号を持っている。

金川さん(50代、グループ長、博士)
蔵田さん(30代、企業社員、博士)
野田さん(30代、ポスドク、博士)
私(20代、修士1年)

まず、2003年の冬に、蔵田さんから基本となるアイディアが提示されたが、どうもそのままではうまくいかないのでどうしたらいいかと相談があった。そこで、実験を担当する役として、私が選ばれた。学部4年の時に、別の遺伝子を調べる方法で、論文を書いていたことが幸いしたのかもしれない。

野田さんの厳しい指導のもと、A案を試しては失敗し、B案を試しては失敗し、C案を試してはやはり失敗。失敗の度に、何度も開かれる開発メンバー内でのディスカッションの日々。どこかを良くしようとすると、いつもどこかに不具合が出てしまう。そんな日々が半年ほど続いた。

開発メンバー内は暗い、諦めムードが漂っていた。実際に、野田さんから「もう潔くあきらめようか・・・」と言われたこともある。しかし、そこには恐れ知らずで、人一倍負けず嫌いの、23歳の私がいた。

「いえ、まだ諦めません!」

私は、寝食を忘れる・・・ということは決してなかったが、研究室でも、電車の中でも、お風呂の中でも、この問題の解決策を考えることに夢中になっていた。

そして、2004年の秋、研究所近くの大きな公園を散歩して帰ってきたとき、研究所の建物の入口で、これまでの問題点をすべて解決するようなアイディアが、ふと頭の中に画像として浮かび上がった。

「これならいけるんじゃないか!」

研究室に走って戻り、頭に浮かんだ絵を、実際にノートに描き込んでみた。よし、これならいけるかもしれない。

その直後、いつものメンバーでのディスカッションが始まった。私はさっき思いついたばかりのアイディアを開発メンバーみんなの前で披露した。・・・一瞬、全員の言葉が止まり、完全に沈黙した。そして、いつもは厳しいコメントで評判の野田さんが囁いた。

「・・・すごい、これならパーフェクトだ。」

博士号を持つメンバーが3人集まって、半年も解けなかった問題を、修士1年の自分が解いてしまったこと。この瞬間が、後々振り返ってみると、自分が研究者として生きていこう、・・・いや、生きていけるかもしれない、と心に決めた瞬間だったと思う。

その後、実験は順調に進んだ。実験データが出揃ったところで、貢献度が高いということで、私がファーストオーサーに選ばれ、必死になって英語で論文を書いて、無事、アメリカの論文誌に掲載が決まった。本当に嬉しかった。

こうして私の研究人生はスタートした。

ABC-PCR法

***Tani H, Kanagawa T, Kurata S, Teramura T, Nakamura K, Tsuneda S, Noda N*. “Quantitative method for specific nucleic acid sequences using competitive polymerase chain reaction with an alternately binding probe.” Anal. Chem., 79, 974-979, 2007.

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