グローバル化の時代こそ日本語が武器になる
夏至まであと10日ほど。朝4時くらいになると空も明るくなり始め、ベランダ越しに三日月が見えます。ちなみに、三日月は夜中に見ることはできず、夕方か明け方にしか見ることができません。
語彙の豊富さから日本語表現を考察してみる
夕方に見える三日月を「上弦の月」と言い、明け方の三日月を「下弦の月」と言います。また、半月のことを弦月と言います。このように日本語には、満月に向かって満ちかけた月の表現として「三日月」「上弦の月」「下弦の月」「弦月」などがありますが、英語では「Crescent Moon」だけで事足ります。
ちなみに、中国語では三日月を意味する「月牙儿」という表現がありますが、やはり日本語ほど語彙が豊富ではありません。また、「月牙儿」という表現は一般的にはあまり使われません。
英語や中国語よりも日本語の表現は豊富だということに興味を持っている私は、次に「朧月」について確認してみたところ、中国語には該当の単語がないようで、「朦胧的月亮」(ぼんやりとした月)と見たままの様子を説明する表現にとどまります。英語においても、「hazy moon」(かすんだ月)で、日本語のようにひとつの単語として成立し、かつそれが感覚的に形容するような表現はありません。
朧月は、薄い雲によって、柔らかく霞んで見える月のことで、幻想的な月夜を感じることができます。人は見た対象物を、視覚で見たままに記憶する一方で、心象のなかでは、言葉を通して記憶をします。ですから、日本人にとっては、上の写真のような霞んで見える月を、朧月として記憶をするし、三日月は「三日月」という日本語の言葉で頭の中にしまっています。だから、月光に満ちた円い月を見て、日本人は満月という言葉が、直感的に心に浮かんでくるのです。
このことは、逆に言うと、例えば、英語圏や中国語圏の人の心の言語世界には、朧月というような感覚的心象空間が存在せず、視覚世界の「ぼんやりとした月」しか存在しないことを意味すると仮定することができるのではないかと思っています。いずれにしろ、日本語には他の言語にない表現の豊富さがあります。
例えば、雪に関する表現も、上の記事を見て、改めて驚きましたが、日本語の表現は、実に豊富です。
私の知らない表現もたくさんあったので、ジャパノートさんの記事よりそのまま拝借しましたが、これだけ豊富な表現を編み出してきたかつての日本の先人たちに感謝の念を抱きました。ちなみに、これらの雪の表現を、英語や中国語で直訳しようとしてもできず、意訳なり説明を加えないと翻訳できない表現がたくさんあります。
雪にまつわる歌で、私は、イルカの「なごり雪」やレミオロメンの「粉雪」が大好きですが、歌手の新沼謙治が歌う「津軽恋女」(1987年2月21日に発売された新沼謙治の28枚目のシングル)という曲も好きで、息の長い名曲です。特に、この曲の歌詞が印象的で今でも頭に残っています。この歌のサビの歌詞はこうです。
この歌詞を翻訳しなければならない翻訳者は、きっと頭を悩ますはずです。
この歌詞の情緒を味わえるのは、日本の地で、雪景色を見て、雪を肌で感じたことがあって、初めて味わえるのだろうと思います。あるいは、同様の視覚的経験によるアナロジーと想像力が相まって、「降りつもる雪 雪 雪 また雪よ 津軽には七つの雪が降るとか こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪 みず雪 かた雪 春待つ氷雪」という歌詞の言葉を聞いて、日本人としての感受性が働き、情緒を感じることができるのだろうと思います。
言葉と風土的な経験の関係性から日本語の豊かさを考察してみる
逆に言えば、その土地の民族が経験したことのない物や事柄が、自然発生的に言語化されることはありえません。
例えば、中国には、「油麦菜」という野菜がありますが、日本では収穫がなく、日本のスーパーでは売っていません。シャキシャキとして美味しい食感のある健康野菜なのに、日本で食べることができないのは残念ですが、ここで言いたいのは、日本に存在しない「油麦菜」という野菜に該当する日本語がないということです。つまり、その土地に存在しない物の言葉は、そもそも存在しないのです。もっと正確を期するとすれば、その土地に存在したことがなく、かつ輸入されたことのない物に対する言葉は、「必要は発明の母」ではありませんが、存在しえないということです。
また、中国の唐の時代の漢詩の中に、「春風十里」という表現があります。少し前の中国の流行歌に同じ言葉を使った「春風十里」という曲がありますが、中国人には、「春風十里」という言葉に結びつく情緒が、確かにあるようです。
「春風十里」という言葉を受けて、日本人と中国人の心の中に浮かび上がる風景があるとしたら、それぞれの心象風景は違うものでしょう。これは日本人と中国人の心の中では、吹く春風も違えば、春風吹く風景も違うからに他なりません。言葉は、極めて土着的なもので、本来は生活に根付いたものなのです。
日本語の特徴と利便性について
そこで、あえて強調したいのが、日本は四季折々で、季節や自然そのものの風景や現象も多種多様だということです。だから日本語には、四季折々の言葉や季節の風景を表現する言葉、また、先ほどの雪の表現を見てもわかるように、自然現象を表す言葉が豊富なのです。そして、それらを装飾する日本語の形容詞も豊かです。さらに擬態語や擬声語までもあります。
ところで、日本語は、他言語を翻訳するのに世界一便利な言語だと、比較言語学では言われているようです。世界の文献をいち早く翻訳をしてしまうのが日本語で、逆に日本の文献を、他言語に翻訳するのは難儀です。これは、私も日本語のシナリオを中国語に翻訳する監修の仕事に関わってきて、実感していることです。例えば、仮に、あるシナリオの一節に、
というセリフがあるとして、これを、日本語のニュアンスを残しながら、中国語や英語に翻訳することは、ほぼ不可能で、この言葉の意味やニュアンスを伝えるためには、文節を分けたり、それ相応の追加説明が必要になってきます。ここで、木枯らしという単語ひとつを取っても、そうです。
冬の季節は、木枯らしが吹く季節ですが、木枯らしが風の一種であることを説明する必要あるでしょう。それに、木枯らしの風情はやはり日本語を通して、「木枯らし」を肌で経験した者にわかる感覚であって、それを、端的かつ直感的に表現する中国語もなければ、英語もありません。
もう一つ
これは、言わずと知れた松尾芭蕉の有名な俳句です。この五七五の俳句が表現しているのは、「カエルが古池に飛び込む水の音」に過ぎません。ただ、この俳句に深い味わいを感じることができるかどうかは、古池やカエル、そして水の音に関わる感覚的な体験があり初めて理解することができます。逆に言うと、日本語と日本文化や日本の風習に触れたことのない人は、芭蕉が詠むところの「水の音」を感覚的に「聞き取れない」ということになります。
松尾芭蕉のこの「古池や蛙飛びこむ水の音」の意味が、アメリカ人には理解しがたく、「水の音」がどういう音なのか感覚的にわからなく、「水の音」が「聞き取れない」ということが書かれた書物を読んだことがあります。そもそも庭に古池があるのは日本庭園の特徴ですが、日本庭園での感覚的体験がなければ、「水の音」がどういう音なのか学習していないわけですから、心の中に「水の音」が「聞こえてくる」ことは難しいのかもしれません。
一方繰り返しになりますが、日本語の表現は豊富で、他言語の表現を翻訳可能にすることに適した言語のようです。日本語は、概念的な言葉の多くはメタ特性のある漢字で表現することができます。それに加えて日本人にとって未体験の領域の言葉については、カタカナを駆使して、外来語として、外国語を呑み込んで日本語化してしまいます。さらに、漢字や平仮名を柔軟に使い、形容詞を次々と生んでいくことができます。これが日本語の表現の豊かさの大きな特徴です。
さらに、日本語を無形文化遺産に指定すべきだと主張する人も少なくありません。繰り返しになりますが、日本語は、例えば「わびさび」のように、他言語で翻訳不能で、仮に日本語の単語を単純翻訳しただけでは、外国人には理解が難しい表現がたくさんあります。これは日本語に特徴的なことでもあり強みであると思うのです。
画一化・均一化のグローバル化の潮流に対して、日本人にとっては日本語が強みとなる
また、一方で、経済活動を中心としたグローバル化の波が止まることを知りません。日本人も、多くの人が英語を学び、グローバル化の波に乗ろうとしています。私は、グローバル化の波に対して、若干距離をおいて見ているところがあるのですが、グローバル化の潮流にいつしか無条件に乗っかり、無意識的にそれに日本人が呑み込まれてしまうとしたら、日本語の豊さが徐々に失われてしまうのではないかと、若干の危惧を覚えています。
グローバル化は、世界が画一化・均一化することだと、私は捉えています。だからこそ、若干滑稽にも思えるのですが、グローバル化のアンチテーゼとしてダイバーシティが強調されるのでしょう。それはともかく、グローバル化の波に乗り、都市化を成し遂げた世界的な都市は、どこも高層ビルが立ち並び、必ずスタバがあり、そして少しの緑があり、どの都市を見ても、何の特徴もなく、どこも同じ風景が描かれています。まさに画一化・均一化の象徴です。
今はグローバルな世の中だから、英語は必須でしょうというのが、おそらくスタンダードな考え方なのかもしれません。私は、そのこと自体を否定するつもりはありません。それよりも、グローバル化の波に乗るのなら、なおさら、日本語の豊かさや素晴らしさを見直すべきだというのが、私の意見です。
グローバル化はもう一方で経済重視の国政のもとに展開されていますが、その流れの中で、日本人らしさや日本人がもつ美意識、つまり日本が本来持つ特徴や特異性を掘り下げることは、グローバル化に逆行するものではありません。
私は、中国でアニメを作ってきましたが、アニメ制作の傍ら、日本の漫画やアニメがどうして世界的に人気があるのか、考察してきました。その答えの仮設として、日本語の豊かさと関係があるのではないかと考えるようになりました。シナリオ作成やデザイン作業のプロセスの中で、日本人のクリエイターの頭の中には、中国人が経験したことのない、クリエイティブ領域があり、その領域は、言語体験領域の有無が大きく影響していると、私はこう仮設を立てたのです。
その仮説の答えはまだ出ていませんが、ただ一つだけ言えることは、日本の漫画やアニメが世界的に普及したことの大きな要因は、日本語に支えられた表現の多様性や幅の広さ、そして、表現の機微によるものもあると、私は主張します。そうです。日本語は、日本人にとっての武器にもなりえるし、日本人としての強みなのです。
グローバル化の波の中で、打ち勝っていくためにも、日本人としての強みである日本語を操れるということを、よく見直し、その上で、英語学習に励むなど、世界の舞台で活躍していくことが、必要だろうと思います。
話が、少し横道にそれますが、昨今のビジネスの現場では、カタカナビジネス用語が多用される傾向にあうようです。
こんな感じで、特にコンサル業界やIT業界では、カタカナビジネス用語が横行しているようですが、上のコメントを見て、どうでしょうか?私は、日本で日本人相手に仕事をするのであれば、ここまでカタカナビジネス用語を使う必要はないと思います。
こうやって、カタカナビジネス用語を本来の日本語に置き換えても、十分仕事はできるし、何の支障もないはずです。そう考えると、カタカナビジネス用語を多用し、ビジネスインテリを気取ったりしないほうが、よほど「ビジネスセンス」に長けているのではないかと、へそ曲がりの私は思ってしまいます。
まあ、そういう私もカタカナビジネス用語を使ってカッコつけてしまいますが、ついでにへそ曲がりな言い方を続けると、こんなグローバル化の潮流に「ファッション的に」乗る傾向を見ていくと、グローバル化の波に呑まれ、いつしか日本人としてのアイデンティティが揺らいでいく可能性があるのではないでしょうか。
グローバルで戦うための能力は、カタカナビジネス用語を使いこなすことでもなければ、英語を駆使することでもありません。場合によっては、英語をツールとして、使いこなす必要もあるでしょう。そうであっても、日本人としての誇りをもって、突き進むことが、大切です。日本人としての魂を売ってまで、グローバル展開をする必要は日本人にはないと、私はあえて言いたいと思います。
そうではなくて、日本人としての美意識や強みを以てして、世界で戦う術を考えていけばいいと思うのです。
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