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さて、前回まで紹介いたしました孟子さんと荀子さんの主張ですが、
これは言ってみれば
民の統治のあり方政治」とは如何にあるべきなのか。という考え方です。
ですから、古今東西を問わず、
「統治者」のあり方の哲学であるといえるわけです。
すなわち、あたしたちが今生活している
この世の中のあり方にも繋がるものでもあるわけです。

まず孟子さんは、君主は利益でなく仁義によって国を治めれば、
小国であっても大国に負けることはないと説きました、

 つまり、天下を得るためには民を得ればよく、
民を得るためにはその心を得ればよい。と言う理屈です。

 そのために民の欲しがるものを集めてやり、
民の嫌がるものを押し付けないことであると言いました。
いわゆる「放任主義」に近い考えですが、その根拠というのは以下です。

 そもそも、人の本性は「善」であるから、
民は安心した暮らしを求め、
人を殺したり殺されたりすることを嫌うからだというわけです。

 王者が仁政を行えば天下の民は誰も敵対しようとせず、
それどころか自分の父母のように仰ぎ慕うようになるというわけです。
 すなわち、「徳」によって、国は治まるのだという理屈ですね。

それに対して、荀子さんが主張する国家論は、
あくまでも「規律」が必要であると言う立場を説きます。
仁義はむろん大事であるが、
「それを知らぬ者」による混乱はありうるのだ。
と言う主張です。

すなわち仁義といえども、
「教育」なくしては成立しないのだという論理です。
ですから、陶冶することによって
初めて「仁義」が生み出されるのだと言うわけです。

しかもそれも常にブラッシュアップしなければ
あっという間に陳腐化してしまうので、
放任してしまっては、民や国はあっという間に衰退、堕落してしまう。
それを防ぐためには、規律ディスフリンルールを徹底すべきである。
という考え方でした。

 すなわち、君主の仁政による支配=人治より、
法による支配=法治こそがよりよい国家統治のあり方である
と説いたわけです。
よくよく考えれば、きわめて合理的な考え方でもありますし、
「法」とは一体何なのだ。
という基本哲学にも繋がります。

 このことについて荀子さんは
人間の本性は限度のない欲望だという前提から、
各人が社会の秩序なしに無限の欲望を満たそうとすれば、
奪い合い・殺し合いが生じて社会は混乱して窮乏する、
と考えました。

前にも言いましたが、これが「性悪説」という論です。

 それゆえに人間はあえて君主の権力に服従して
その規範や法に従うことによって生命を安全として
窮乏から脱出できると説きました。

日常の安全保障だね・・

 このような思想は、社会契約説の一種であるとも評価されています。

こうなると、西洋哲学や近代政治のあり方にも繋がるので、
漸次掘り下げてみましょう。

CONTINUE


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