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バークレーの思い出

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備忘録として、1年間バークレーに住んでいた時の思い出を語ります。
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#エッセイ

バークレーの思い出#18 スタンフォード大学

 UCバークレーに訪問研究員として通った1年間に、2度ほどスタンフォード大学に行ったことがありました。UCバークレーは名門の公立大学ですが、スタンフォード大学は名門の私立大学です。例えは正確ではありません、日本で言えば東大と慶應大のような関係です。  UCバークレーとスタンフォード大はスポーツや勉強のライバル校です。一年に一回、アメリカンフットボールの対抗戦があって、大いに盛り上がります。両大学にはスクールカラーがあって、UCバークレーは『紺(と黄)』、スタンフォード大は『

バークレーの思い出#17 挨拶の習慣

 アメリカでは、皆さんがよく挨拶をします。「そんなの、当り前じゃないか」と思われるかもしれません。しかし、ちょっと待って下さい。知り合い同士で挨拶するのは、日本でも当たり前ですが、コンビニやデパートのレジや会計で、お店の人に挨拶する人がどれだけいるでしょうか?。日本ではほぼ0%ですが、アメリカではほぼ100%の人が挨拶します。  もちろん初対面の場合がほとんどですから、お互いに最初は軽い”Hi”(ハイ)から始まります。その店の常連になれば、もっと複雑な会話を交わしますが、た

バークレーの思い出#16 マイニングビルディング

 UCバークレーのキャンパスの北西部に、マイニングビルディング(Mining Building)という建物があります。正式には、Hearst Memorial Mining Buildingと言います。Miningというのは鉱業という意味です。  1849年のゴールドラッシュ以後、カリフォルニア州は何十年も続く鉱業ブームに沸いていました。その影響もあって、1900年代初頭、バークレー校に在籍する3000人の学生のうち15%以上が鉱業を専攻し、カリフォルニア大学バークレー校の

バークレーの思い出#15 アメリカの料理

 今回はアメリカ滞在時の料理についてです。この記事は、あくまで個人の感想で、”独断と偏見が多め”の記事になっています。それから、これは20年以上の前のアメリカ(カリフォルニア州)限定のお話です。今は改善されていることを期待しています。  最初から辛辣な感想を書きますが、とにかくアメリカの料理は不味いです。このアメリカ料理には、和食・中華・イタリアン・フレンチなどのレストランは除きます。ここでのアメリカ料理は、カフェやその他のレストランでの料理です。アメリカ料理の味のカテゴリ

バークレーの思い出#14 サンフランシスコのお医者さん Dr. Lee

 バークレーにいた1年間、幸いにも私は一回も医者のお世話にはなりませんでしたが、妻や娘は何度もお世話になりました。バークレー滞在中の家族のかかりつけ医が、サンフランシスコのドクター・リー(Dr. Lee)でした。  ドクター・リーは、日本で生まれ育った中国人で、アメリカの大学を卒業して、アメリカで医師免許を取得したと話していました。なので、日本語と英語はペラペラです。また、独学でスペイン語もマスターしていたので、患者には中国人、日本人、中南米の人たちがいました。この病院に行

バークレーの思い出#13 日本食レストラン『KIRALA』

 アメリカのカリフォルニア州バークレーに滞在中に住んでいたアパートの近くに、KIRALA(きらら)という日本食レストランがありました。私がバークレーにいたのは四半世紀前なのですが、調べてみるとまだ店が続いているようでした。  当時、お寿司(カリフォルニア巻き)やお弁当などの日本食をテイクアウトできる店はいくつかありましたが、本格的な日本食レストランはココだけだと記憶しています。KIRALAは通学路の途中にあるので、店の前は何度も通りましたが、KIRALAに入ったのは、渡米後

バークレーの思い出#12 弱者に優しい街・バークレー

 バークレーは弱者に優しい街でした。街には、多くのホームレスがいましたが、表立って排除されたり、手荒に扱われているところを見たことがありません。スーパーマーケットや本屋などの人の出入りが多い店には、決まってホームレスがいました。常連客とは顔なじみのようで、お互いに挨拶を交わしていたりするのをよく見ました。  ホームレスの目的は、商品を買った後のお釣りの小銭をもらうことです。決まり文句は、「Donation, please.」です。直訳すると、「寄付して下さい」となります。ホ

バークレーの思い出#11 バークレーのスターバックス

 少し前の話ですが、「スタバは無いけど砂場はある」と言った鳥取県知事のコメントが話題になったことがありました。それだけ、現在の日本にはスタバ(スターバックス)は、おなじみです。しかし、私がアメリカにいた頃、まだ日本には1件もスタバはありませんでした。  バークレーに住んでいた頃、ほとんど外食をしなかったので、喫茶店やコーヒーショップに入ることはありませんでした。しかし、知人の日本人から、美味しいコーヒー屋さんがあることを聞いていました。その人の話では、コーヒーが苦手なのに、

バークレーの思い出#10 バークレーボウル

 バークレーでは、スチュワート通りに面した集合住宅に住んでいました。集合住宅と言っても、アパートではなく、平屋の長屋みたいな家が数棟あって、やり手の大家さん(奥さんの方)が管理していました。大家さんは日系アメリカ人でしたが、大家さんの奥さんは日本人でした。大家さんの住居を含めて、4-5棟ぐらいありましたが、すべて日本からの研究者や留学生が住んでいました。  UCバークレーは人気があるので、不動産市場は売り手市場です。日本からも引っ切り無しに研究者や留学生がやってくるので、借

バークレーの思い出#9 写真付きIDを持ってますか?

 タイトル図は、アメリカ在住時の写真付きのID(証明書)です。これは、車の運転免許を管理しているDMVで発行してもらいました。今回の話は、写真付きIDを忘れて大失敗した話です。  バークレーに住んで一か月たったころ、テキサス州ダラスで行われるSEG(Society of Exploration Geophysicists)の学会に家族一緒に参加することになりました。SEGは、国際的に一番メジャーな物理探査学会です。飛行機は、バークレーの隣のオークランド市のオークランド空港か

バークレーの思い出#8 ホーム・アローンのお爺さん

 『ホーム・アローン』(Home Alone)は、1990年公開のアメリカのコメディ映画です。制作当時10歳だったマコーレー・カルキン君は、この作品で一躍有名になりました。テレビでも何度も放映されたので、見たこともある人は多いでしょう。  シカゴに住む裕福な家庭で、子沢山のマカリスター家は、クリスマス休暇を利用して家族総出のパリ旅行に出発します。しかし、主人公のケビン少年だけは、一人だけ家に取り残されてしまいます。そこへ泥棒が・・・と言うストリーです。このメインのストーリー

バークレーの思い出#7 アメリカの車事情

 あくまで20年以上前の話です。今は違うかもしれませんので、そのつもりで読んで下さい。カリフォルニアのバークレーに住んで思ったことは、キレイな車がほとんど走っていないという事でした。日本では、休日ともなれば、自家用車を洗車してきれいな状態を保ちますが、アメリカではそういうことは殆どありません。  車は移動手段だと割り切っているので、「動けばいい」と考える人たちがほとんどです。単なる移動手段に過ぎない車を、手間暇かけてピカピカにするという考えが、そもそもありません。  はじ

バークレーの思い出#6 UCBのキャンパス

 カリフォルニア大学バークレー校(UC Berkeley)のキャンパスは開放的で、徒歩なら誰でも出入りすることができます。ただし、車での出入りはかなり制限されていて、学内の駐車スペースに車を止められるのは、限られた有名教授だけでした。私がお世話になったモリソン教授も、物理探査の分野ではかなりの有名人で、寄付講座の教授も兼任していましたが、それでも学内の駐車スペースはもらえていませんでした。  UCバークレー校の大学キャンパスで一番の名所は、セイザータワーと呼ばれる大きな塔で

バークレーの思い出#5 お金と銀行

 アメリカでは2つの銀行口座を持っていました。1つは当座預金(checking account)で、もう1つは 普通預金(saving account)です。アメリカの社会保障番号(social security number)を申請するためにも、銀行口座が必要なので、ユニオンバンク(Union Bank of California)で口座を作りました。カリフォルニア州では、この他にもバンカメ(Bank of America)やローカル銀行のMechanics Bankという