見出し画像

バークレーの思い出#10 バークレーボウル

 バークレーでは、スチュワート通りに面した集合住宅に住んでいました。集合住宅と言っても、アパートではなく、平屋の長屋みたいな家が数棟あって、やり手の大家さん(奥さんの方)が管理していました。大家さんは日系アメリカ人でしたが、大家さんの奥さんは日本人でした。大家さんの住居を含めて、4-5棟ぐらいありましたが、すべて日本からの研究者や留学生が住んでいました。

 UCバークレーは人気があるので、不動産市場は売り手市場です。日本からも引っ切り無しに研究者や留学生がやってくるので、借家経営は安定した収入源です。私達家族が借りていたのは、1LDK の家具付きの家でした。基本的な家電やベッドは備えられていましたが、洗濯機はコインランドリーみたいに共用でした。家賃は駐車場込みで二千数百ドル以上でしたから、当時のドルレートでは25~30万円くらいでした。今思えば、かなりの高額です。

 引っ越し初日に、調味料や食料を買いに行ったのでが、近所のバークレーボウル(正式にはBerkeley Bowl Marketplace)というスーパーマーケットでした。バークレーボウルのHPによると、1977年にグレン・安田が、バークレーボウルと言うボーリング場の跡地・建物を使って始めたようです。スーパーマーケットなのに、どうしてバークレーボウルなんだろうと当時は不思議に思っていましたが、このHPの歴史を読んで納得しました。

 バークレーボウルは、日系アメリカ人が始めただけあって、米・豆腐・味噌・醤油などの日本食素材が置かれていたので、大助かりでした。アメリカでは州にもよりますが、日本食素材がなかなか手に入らない地域もありました。我が家からバークレーボールまでは徒歩1-2分でした。タイトル図は私が行っていて時の昔の写真ですが、大通りに面した入り口側の写真です。建物の色は茶色だったと記憶しています。

 私はいつも正面からではなく、建物の正面から見て右側面にある通用口から入っていました。正面には2名のホームレスが常駐していましたが、この通用口にも1人のホームレスが常駐していました。この通用口から入ると、右手に肉屋、左手に魚屋がありました。肉は日本よりもずっと安いのですが、魚は肉より高い印象でした。

 はじめての買い物時には、大家さんが付き合ってくれました。妻と手分けして、生活に必要なものをアレコレ購入しましたが、なぜか砂糖の場所がわかりません。大家さんに砂糖の場所を聞くと、「ここよ」と言って教えてくれた場所は何度も通り過ぎた場所でした。日本で砂糖といえば、透明なパッケージを想像しますが、アメリカではパッケージが全然違います。アメリカでの砂糖のパッケージは、日本の洗濯洗剤の箱と同様のパッケージでした。パッケージが全く違うので、洗剤と勘違いして、何度も素通りしていたのでした。文化の違いはこんな些細なとこにも現れます。

 私たち家族が日本に帰ったあと、バークレーボウルは近くの別の場所に移転しました。移転した場所はセーフウェイ(Safeway)というドラッグストアがあった場所でした。私が住んでいた頃は、ここでトイレットペーパーや子供の紙おむつなどを買っていました。私は行ったことはありませんが、下の写真が移転して新しくなったバークレーボウルです。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?