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バークレーの思い出

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備忘録として、1年間バークレーに住んでいた時の思い出を語ります。
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記事一覧

バークレーの思い出#26 Building 9

私がUCバークレーにいた時に主に通っていたのは、丘の上にあるLBNL(ローレンス・バークレー・ナショナル・ラボラトリー)でした。UCバークレーは大学ですが、アメリカ合衆国エネルギー省(DOE)の研究所を併設しています。LBNLでは、物理・化学・生命科学・コンピュータサイエンス・エネルギー工学・ナノテクノロジー・環境工学などの幅広い分野の研究が行なわれています。この研究所では、UCバークレーからも多くの大学院生・大学生を受け入れています。 私のデスク(仮)があったのは、Bui

バークレーの思い出#25 Muir Woods

サンフランシスコの北に広がる素晴らしい森であるミュア・ウッズ(Muir Woods) は、1908年にセオドア・ルーズベルト大統領によって国定公園に指定されました。この名称は、偉大なナチュラリストであるジョン・ミュアに敬意を表したものです。彼はこの公園について、「世界中の森林の中でも、樹木愛好家にとって最高のモニュメントだ」と評しています。 ミュア・ウッズは、ゴールデンゲートブリッジを渡り北へ少し進んだ場所にあります。ここには静寂なレッドウッドの森林が広がっています。

バークレーの思い出#24 家族の写真

訪問先であるUCバークレーで私を受け入れてくれたのは、電気探査や電磁探査の権威であるM教授でした。しかし、このM教授は超多忙で、日本から来た”ポンコツな訪問研究員”の面倒を見る余裕がありませんでした。 その代わりと言っては語弊がありますが、私の面倒を見てくれたのは、これまた電磁探査の権威であるL博士でした。L博士は韓国出身の在米研究者で、私はアメリカに行く前に面識がありました。同じアジアから来た訪問研究員ということで、親切にも私の世話を焼いてくれました。いまでも、そのことに

バークレーの思い出#23 太鼓道場

バークレーに住んでいた頃、時々サンフランシスコにも行っていました。サンフランシスコには日本人町(ジャパンタウン)があって、日本食レストランや紀伊国屋などがありました。 買い物や観光でサンフランシスコに行ったのは数回程度でしたが、そのたびに”太鼓道場”のパフォーマンスに遭遇しました。正式名称は San Francisco Taiko Dojo で、日系人を中心に太鼓の演奏活動を行なっています。私が見たのは、アダルトの本格的な演奏ではなく、ヤングによるデモンストレーション演奏で

バークレーの思い出#22 アメリカの自動販売機

日本では当たり前の光景である自販機は、アメリカの街中では見かけません。これは、治安の問題もあるのでしょうが、味気ない機械から買いたくないという気持ちの表れかもしれません。もしアメリカの道端に自販機が設置されたら、一夜で破壊され、中の商品やお金が持って行かれることでしょう。普段意識しませんが、日本はかなり治安の良い国です。 しかし、アメリカでも限られた場所では自販機が設置されていました。それは建物内部で、その関係者でなければ進入できない場所に限られます。私が通っていたUCバー

バークレーの思い出#21 サンフランシスコのストリートパフォーマー

バークレーに住んでいた時、対岸の観光都市・サンフランシスコには何度か訪れました。その大半は、サンフランシスコ市内にある病院に行くためではあったのですが、観光やショッピングで行くこともありました。サンフランシスコと言えば、フィッシャーマンズワーフなどの観光名所が有名ですが、私たち家族もケーブルカーに乗って行ったことがありました。 フィッシャーマンズワーフに行ったのは四半世紀前の話ですが、当時から賑やかな観光地でした。観光客が集まるので、ストリートパフォーマーも集まります。大道

バークレーの思い出#20 特大の雹が降って来た

今日(2023年2月25日)のお昼過ぎ、自宅付近で雹が降りました。外で激しい雨音がしたので、急な土砂降りかと思って外を見ると、雹が降っていました。ベランダにも、雹の氷の粒が落ちていました。氷の粒の大きさは2-3ミリくらいでさほど大きくありませんでが、それでも大きな音で数分間ほど降り続きました。 雹で思い出すのがバークレーです。その日は、家にいたのでたぶん週末だったと思います。バークレーは、海を挟んでサンフランシスコの対岸に位置しています。サンフランシスコ沖には寒流が流れてい

バークレーの思い出#19 差別について

ネットの記事で様々な差別に関する記事を目にすると、モヤモヤとした感情が沸き上がってきます。大上段に正義感を振りかざして、「差別は絶対にダメだ」と言っているのではありません。大変残念なことですが、世の中には様々な差別が存在しています。私が1年間住んでいたアメリカでは、未だにアフリカ系アメリカ人やアジア系アメリカ人に対する差別があります。また、性的マイノリティに対する差別もあります。差別問題の難しさは、”差別の定義”の難しさにも起因しています。Wikipediaには、差別の定義に

バークレーの思い出#18 スタンフォード大学

 UCバークレーに訪問研究員として通った1年間に、2度ほどスタンフォード大学に行ったことがありました。UCバークレーは名門の公立大学ですが、スタンフォード大学は名門の私立大学です。例えは正確ではありません、日本で言えば東大と慶應大のような関係です。  UCバークレーとスタンフォード大はスポーツや勉強のライバル校です。一年に一回、アメリカンフットボールの対抗戦があって、大いに盛り上がります。両大学にはスクールカラーがあって、UCバークレーは『紺(と黄)』、スタンフォード大は『

バークレーの思い出#17 挨拶の習慣

 アメリカでは、皆さんがよく挨拶をします。「そんなの、当り前じゃないか」と思われるかもしれません。しかし、ちょっと待って下さい。知り合い同士で挨拶するのは、日本でも当たり前ですが、コンビニやデパートのレジや会計で、お店の人に挨拶する人がどれだけいるでしょうか?。日本ではほぼ0%ですが、アメリカではほぼ100%の人が挨拶します。  もちろん初対面の場合がほとんどですから、お互いに最初は軽い”Hi”(ハイ)から始まります。その店の常連になれば、もっと複雑な会話を交わしますが、た

バークレーの思い出#16 マイニングビルディング

 UCバークレーのキャンパスの北西部に、マイニングビルディング(Mining Building)という建物があります。正式には、Hearst Memorial Mining Buildingと言います。Miningというのは鉱業という意味です。  1849年のゴールドラッシュ以後、カリフォルニア州は何十年も続く鉱業ブームに沸いていました。その影響もあって、1900年代初頭、バークレー校に在籍する3000人の学生のうち15%以上が鉱業を専攻し、カリフォルニア大学バークレー校の

バークレーの思い出#15 アメリカの料理

 今回はアメリカ滞在時の料理についてです。この記事は、あくまで個人の感想で、”独断と偏見が多め”の記事になっています。それから、これは20年以上の前のアメリカ(カリフォルニア州)限定のお話です。今は改善されていることを期待しています。  最初から辛辣な感想を書きますが、とにかくアメリカの料理は不味いです。このアメリカ料理には、和食・中華・イタリアン・フレンチなどのレストランは除きます。ここでのアメリカ料理は、カフェやその他のレストランでの料理です。アメリカ料理の味のカテゴリ

バークレーの思い出#14 サンフランシスコのお医者さん Dr. Lee

 バークレーにいた1年間、幸いにも私は一回も医者のお世話にはなりませんでしたが、妻や娘は何度もお世話になりました。バークレー滞在中の家族のかかりつけ医が、サンフランシスコのドクター・リー(Dr. Lee)でした。  ドクター・リーは、日本で生まれ育った中国人で、アメリカの大学を卒業して、アメリカで医師免許を取得したと話していました。なので、日本語と英語はペラペラです。また、独学でスペイン語もマスターしていたので、患者には中国人、日本人、中南米の人たちがいました。この病院に行

バークレーの思い出#13 日本食レストラン『KIRALA』

 アメリカのカリフォルニア州バークレーに滞在中に住んでいたアパートの近くに、KIRALA(きらら)という日本食レストランがありました。私がバークレーにいたのは四半世紀前なのですが、調べてみるとまだ店が続いているようでした。  当時、お寿司(カリフォルニア巻き)やお弁当などの日本食をテイクアウトできる店はいくつかありましたが、本格的な日本食レストランはココだけだと記憶しています。KIRALAは通学路の途中にあるので、店の前は何度も通りましたが、KIRALAに入ったのは、渡米後