見出し画像

親父の存在

物心ついた時から、親父の存在感は大きかった。いつも大きなグラサンをかけていて、言葉数少なくて、タバコ吸いながら新聞を読んでいた。でも、家族のイベントで大事な時には、バシッと意見や助言を伝えてた。僕らの母親を誰よりもしっかり守ってくれてたし、あまり語らないけど、誰よりも家族の事を理解してくれてた。新しいもの好きで、なんだかよくわからない家電製品を毎週のように買ってきたり、海外に度々いってたので、家に白人のお友達を連れてきてくれたり、海外出張行くと、珍しいものをお土産として持って帰ってきてくれた。映画会社で働いていた事もあって、運動会とか、サッカーの試合の時には、気合い入れてずっと動画を撮ってくれてた。小学校低学年くらいまでは良く家族全員で旅行に行っていた気がするけど、一番上の姉が高校生になった時くらいから、家族全員とはならず、末っ子の僕と母親と親父の三人での旅行の方が増えていった。んで、僕もだんだん行かなくなって、友達と遊ぶ事やサッカーの遠征に行くことの方が増えていった。

酔っ払うとめちゃくちゃ笑うし、よく話す。まだパソコンがそこまで普及してなかった時から、IBMの真ん中に赤い小さい乳首みたいのがついているノートパソコンで、よくタイピングしていた。色んなことに興味があって、たくさん本を読んでたし、ニュースを見てた。母親には良く宿題しなさいって怒られてたけど、親父から言われた記憶は一度もない。僕がペヤングを初めて自分で作った時、お湯を入れる前にソースを入れようとしたら、「その順番で大丈夫か」って聞かれて、素直に受け入れるのが嫌で、「最近のインスタント焼きソバはこれで大丈夫なんだよ」って答えてそのまま作り続けた。んで、ほとんど味のしない焼きソバを食べた。あとで後悔した事は今でも忘れない。

中学生に入ると、親父がどんな仕事をしているのかなんとなくわかってきて、でも具体的には良く分からなくて、いつも不思議だった。社会とか教育とか人種とかそういう分野に精通していた親父は、自分の作りたい映像をプロデュースしていたらしく、新しい作品を作る時には、コンテみたいなものを見せられて、「このストーリーどう思う」って聞かれたことが多々あった。こっちはサッカーと遊びと女の子のことしか考えていなかったので、全く興味なかったし、どうでもよかった。家で酔っ払うと、人権とか法律のこととか、インターネットのすごさとか、知識を得ることの大事さとか、色々話してたっぽいけどチンプンカンプンで、僕は一生そんなことに興味なんて持たないんだろうなって、思ってた。

その頃、僕は町のクラブチームでサッカーと学校の部活で陸上(幅跳び)を真剣に取り組んでいた。どっちも好きだったし、どちらもある程度結果が出ていたので、できる事なら両立していきたかったけど、やっぱり極めるには一本に絞らないとダメだって感じたので、サッカーに専念することに決めた。Jリーグ開幕の後、日本中でサッカー熱はすごかったと思うし、仲間と一緒に大会に臨んでいくチーム感が好きだったから、個人競技(陸上ではリレーもやっていたけど)のスポーツよりもサッカーで試合に勝った時の喜びは半端なかった。最初のうちはずっとサブメンバーだったけど、苦手のリフティングや右足を強化して、試合にも徐々にスタメンで出れるようになっていった。自分がゴールを決めて試合に勝った時はサッカーが楽しくてしょうがなかったけど、自分が無得点で試合に負けた時の悔しさは大嫌いだったし、みんなに申し訳なくて仕方なかった。

サッカーのプロ選手になりたいと本格的に思い始めてた時に、転機が訪れ静岡のサッカー強豪高校へのセレクションの話が来た。親父に将来の夢を伝えて、静岡に行ってサッカーをしたいと伝えたけど、反対された。「都内にも、サッカーもある程度強くて、学力も高い高校がある」と当時の高校受験用に発売されていた黄色い本にたくさん付箋をつけて、いくつもの高校を紹介された。その時、自分のことを親父は何も考えてくれてないと感じて、初めて親父と取っ組み合いの喧嘩をした。中三の夏だ。その喧嘩が原因で今でも実家の浴室のドアはへっこんでる。その後、母親が僕の好きなようにすれば良いと親父を説得してくれて、静岡に行ったが高二の夏に靭帯を断裂して、僕のサッカー人生は幕を閉じた。

サッカーはスポーツで、怪我でもして身体が動かなくなったらそれで終わりだ、と、親父には何度も言われていた。そして、それが現実となってしまった。リハビリは頑張ったけど、回復せず手術を繰り返した。高校を卒業して、プロになるやつもいれば、サッカー推薦で社会人リーグや大学へ進学する奴らがほとんどで、同じクラスで進路が決まっていなかったのは、同じく靭帯を断裂した彼と僕だけだった。東京に戻ってきたけど、喧嘩をして以來親父とはまともに話していなかったので、久々の実家住まいも居心地は良くなかった。サッカーを忘れたくて、地元の友達と色んな事をして遊んだ。当時は、自由を勘違いして受け止めていて、特に理由もなく夜中のバイトを始めた。一晩中働いて、朝方床につく。夕方前に起きて、夜飯を朝ごはんとして食べて、またバイトに向かう毎日を続けていた。

親父の55歳の誕生日の週に、2番目の姉がいきなり俺の部屋に入ってきて言った。

「秀樹、今から言うことはしっかり聞いて。気を確かにもってしっかり聞いてね」と。そして、親父が癌に侵されている事を告げられた。そして、「今の医療技術なら、完治できると思うけど、最悪のケースも想定しておいて」と姉は言った。

一時的な病気でいずれ良くなるだろうと思っていたこともあって、それからも親父との距離感は、あまり変わらずだった。そして、親父とお医者さんの努力もあって、癌がなくなったと聞いて、皆で大喜びした。でも、再発の可能性があるから油断できないと、みんなで語った事を覚えている。

親父の完治祝いも兼ねて、10年以上ぶりに家族全員で伊東へ旅行に行った。平日だったので、昼間のホテルの温泉は貸切状態だった。親父との二人きりの風呂はなんだか懐かしい感じもしたし、単純に親父の病気が治った事が嬉しくて、あまり話さなかったけど楽しかった。風呂を上がる前に大きな浴槽の中で親父に「お前は、この先何をしたいんだ」と聞かれた。「特に考えてない」みたいな事を答えたと思う。そしたら、親父は「なら、アメリカへ行け」といきなり言ってきた。意味不明だったので、俺はすぐさま「なんでアメリカ?俺、英語も話せないし」と返答した。続けて、「お前みたいな奴は、日本にいても成長しない。海外へ行ってもまれてこい。アメリカならお前を受け止めてくれる」ってのが、親父からの最後の遺言だ。その1ヶ月後には、再発した癌が以前よりも強い勢力で親父を襲い、僕が20歳を迎えた6日後に親父は他界した。

今日は、親父が他界してちょうど20年経った日だ。今日、昼間打ち合わせの間に、親父が眠るお寺に自分の家族と墓参りしにいった。親父と共に過ごした20年と親父を失ってからの20年が過ぎ、僕は先日40歳になった。

今思えば、親父から学んだことは、数知れない。親父の遺言だけを頼りに他界から3ヶ月後には渡米していた。向こうの大学では、アートと社会学を専攻していた。6年間移住生活を送り、帰国して僕は今、著作権と出版権を取り扱う仕事をしている。会社を経営するために法律のこともある程度勉強してきたつもりだ。今一番興味のあることは、どうやって国際的に活躍できるクリエイターを育てるか、作曲や音楽をプロデュースすることの楽しみをティーンや子供達にどうやって伝えるか、そして、どうやってクリエイター人口の裾拡大を行えるかだ。

生前、親父から教わった人生論の余韻を利用させてもらい、この20年を過ごしてきたとは思う。でも、もう今日からは自分自身でその方法論を生みだしていかなくてはならない。ペヤングの過ちもサッカーの挫折も、体験してきた失敗全て、意味があるものだったとは思う。ただ、人生の先輩やましてや父からのアドバイスほど、自然で且つ思いやりのある助言はなかなかないものだ。受け入れることも一つ、反発することも一つ、自身の決断が未来を構成する。だからこそ、願う未来の為に決断を下すべきだと思っている。そんな事を親父は教えてくれたんだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?