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様々な情報源から推理する歴史の流れと、そこからみえるこれからの生き方のヒント② 超古代〜縄文


前回は、古代の歴史の流れについて見てみました。




今回は、そこを振り返りつつ、縄文時代への流れを見てみたいと思います。





古代文明


前回、古代文明について少し触れました。



紀元前1万年頃(12,000年前頃)、大西洋ではアトランティスが沈み、太平洋ではスンダランド*が沈んだ可能性が考えられます。

*スンダランド
タイの近海で海底構造物が発見された! そこは”幻の大陸スンダランド”があったとされている場所であった。スンダランドとは、氷河期の終わりに海底に沈んでしまった広大な大陸で私たちの祖先が文明を発達させたとされている場所である。

幻の大陸スンダランド~海底に眠る人類の記憶~



アトランティス


前回、アトランティスに関しては軽く触れただけですが、今回、もう少し内容について触れてみようと思います。



以下の本から引用しつつ、まとめてみます。




紀元前5万年: 最初の破局



「最初のものは紀元前五万年前頃に起こり、かの大陸の一部がそれにより破壊された。」

「アトランティス大陸において不穏な勢力が存在していたころ、ーーあるいは、霊的な事柄を物理的な肉体を持つ人間たちのわがままに使ったことで、かの大陸に最初の沈没をもたらした。初めての不穏な勢力が訪れる直前のことであった。これは、聖書に『神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て』と記されている時代のことである」

「・・・サードが指導者であった頃のインドの地において・・・地球にはびこっていた動物たちを地球から追放する目的で集まった人々の中にいたが、神は氷、自然を使って極を変えることで、当時人間が駆除しようと試みていた動物たちを滅ぼし給うた」


空と海中との双方を航行できる船があったようで、UFO的なものがあったと考えられます。


動物たち、おそらく恐竜を、クリスタルを用いたレーザーのようなもので滅ぼそうと計画していたようですが、その前に、ポールシフトが起こったようです。



紀元前2万8000年: 二度目の破局


「二度目は紀元前2万8000年頃に起こったもので、その際に残っていた陸地が島々に分断されてしまった。」


アトランティスのテクノロジーは、「ツーオイ石」「ファイヤー・ストーン」「クリスタル」と呼ばれる石をエネルギー源にしていたようです。


当初、霊的、精神的な交流を生み出す源だったようですが、その当時は、乗り物(UFO?)の動力として使われていたようです。


「唯一なる神の法則の子供たち」と「悪魔の子供たち」との争いでバラバラになっていた当時のアトランティスで、その力が誤用されたと言います。


それらは、故意にではなかったが〕・・・目盛りを余りに高く調整されたのでーーその土地の人々に対して二度目の破壊的な力をもたらし、その地を小さい島々に分断してしまった。


この時も、ポールシフトのような地球規模の変化があったようです。



紀元前1万年: 最後の破局


最後の破局は紀元前1万年頃に起こったが、その際に、残りの島々が海没してしまった。


二度目の破局の後も、ある程度の科学的な知識やテクノロジーは残ったようですが、「唯一なる神の法則の子供たち」と「悪魔の子供たち」の二つの勢力も生き残っていて、労働者階級の低い人たちとの間に圧政もあったようです。



二つの勢力の戦いを通じて最後の破局がもたらされるのですが、それに気づいた人たちは、各地に移住したようです。


ピレネー山脈、エジプト、ユカタン半島、中央アメリカ、ペルー、、




過去の時代ほど高度なテクノロジーではなかったものの、アトランティスは、最後に残された島々が海没していった時でも、依然として進んでいた文明を有していた。通信と人の往来が、アトランティスと他の国々、例えば、インド、ゴビ砂漠、ピレネー山脈、ペルー、ユカタン半島、北アメリカの一部、そしてエジプトとの間で行われていた。あるリーディングでは、インドシナとシャム(今のタイ)までも登場する。



記録はエジプトに持ち込まれたようですが、テクノロジーは失われていったものと考えられます。




レムリア


次にレムリアですが、こちらはあまり資料がないので、何となくのイメージで。



・太平洋にあった

・スンダランド、沖縄などの海底遺跡に見られる

・巨石文明

・文明の中心地は当時の海沿いにあったと考えられるため、現在は海中に沈んでいる

・スンダランドが沈んだ後、ラピュタ人が海洋民族として、日本を拠点に世界を航海していた

・東洋的な文明の元はここにある可能性がある

・日本はこの太平洋の文明の一部だったかもしれない

・日本の山の上にある巨石は、この巨石文明の名残りかもしれない





追記です。



レムリアに関するエドガーケイシーのリーディング情報を見つけました。




以下、引用します。


―― ケイシーによると、アトランティス大陸はかつて大西洋に実在し、20万年くらい存続した文明です。アトランティスはBC5万年に最初の崩壊があり、大陸は3つの島に分かれました。さらに、BC2万8千年、2つの島が水没、残った1つの島ポセイディアに、アルタという都市が栄えていました。そしてBC1万500年ごろ、エネルギーを誤用したのがきっかけで3回目の崩壊を起こし、海中に没したのです。

 同じころ、ムー(レムリア)大陸も、アトランティス崩壊のあおりを受けて、海中に没しました。ムーとレムリアを別の大陸と考える研究者もいますが、ケイシーは同じものと考えています。ケイシーによると、レムリア大陸にはムー一族が支配していた地域があり、彼らが勢力をもっていたために、レムリア大陸はムー大陸とも呼ばれるというのです。

 ムー文明の痕跡は、太平洋のさまざまな場所にあるとされます。一方アトランティスの痕跡は、マイアミ、ビミニ諸島、ペルーのあたりまで広がる巨大な大陸で、ビミニ諸島は最後に水没した高い山脈の突端にあたります。そのため、いまもビミニ諸島では質のよい地下水を得られるそうです。

 レムリアが没したとき、人々はアメリカ、中南米ユカタン半島、ペルー、アジアに向かうグループに分かれました。最も西まで移動した人たちは、日本や中国に向かったようです。このうちペルーに移った人たちは、水没した故郷を思い、海から離れた内陸に文明を築こうとしました。それがマチュピチュです。マチュピチュ建造には、アトランティスの末裔も合流して関係していますが、中心となったのはレムリアからの避難民でした。

 マチュピチュは、歴史学では15世紀頃の建造とされますが、ケイシーはピラミッドと同じ、BC1万500年くらいの建造と主張しています。

 マチュピチュの石組みもきわめて精巧で、石と石は奥のほうまでぴったり組まれていて、剃刀一枚も入らないほど、隙間がまったくありません。しかも、石が切り出されたのは遺跡から10数キロ離れた場所で、その間には渓谷もあります。

 人力ではとても動かせない石が、重機を置くスペースもないような場所に軽々と据えつけられているのです。それを考えると、現代文明のテクノロジーを超えた何か、たとえば重力をコントロールできる技術があったと想定するほうが自然でしょう。

 なお、興味深いことに、エジプトのピラミッドがきっちりした直線の立方体で造られているのに対して、マチュピチュの遺跡の石は、自然の造形を活かそうという発想で切り出されて、曲線が多いという特徴があります。アトランティスとムーの文明には、このような世界観の違いが見られます。

(中略)

* アトランティスとムーが地殻変動で海に沈んだとき、一部の人たちは、ロッキー山脈、ニューメキシコ、ネバダ、ユタ、コロラド方面に避難した。移住先だったアリゾナやネバダ居住者には、ムーの過去生をもつケースが多い。(たいていの魂は、なじみのある場所で転生することを好むからと思われる)避難者たちは、最初、洞窟に居住し、服としては皮革を身にまとい、装飾品として金属を加工していた。彼らは、宝石や貴金属に関心があった。

* 超古代文明には、重力をコントロールするテクノロジーがあり、浮上させて移動することができた。また、彼らは空間認識に優れていて、平面図を見るだけでその空間を容易に想像できた。

* アトランティス人の名前は子音が多く、ムー人の名前は母音が多い。(日本語が母音言語というのは、ムー文明の要素をもっているのかもしれない)

*ムーが崩壊したとき、ロッキー山脈、ニューメキシコ、ネバダ、ユタ、コロラドに移住した人たちの中に、「その土地で初めて家庭生活を樹立した」過去生をもつ人がいる。(つまり、それ以前の時代、人々は集団で生活をいとなみ、子どもは社会ぜんたいで養育していたと考えられる)

(中略)

* 物質文明という面ではアトランティスはポセイディアにおいて最高レベルに達していたが、レムリアの一部には、それと同等またはしのぐような文明が存在していた。レムリアは非常に宗教的な文明だったらしく、高度な科学文明をもつと同時に、人の霊的本性に対する理解が進んでいた。

* 地殻変動が生じる前のレムリアには、人の娘・息子と、神の娘・息子のあいだに混血があった。(聖書の創世記には、地上には巨人がいたという記述があるが、その時代のことかもしれない)

(中略)

* ムーが栄えていた時代は、「自然のエレメンタルが人間に対して優しかった」すなわち自然環境が穏やかだった。ムーの人々は木造の家に住んでいたため、居住跡の痕跡が残らない。石造りなのは、神殿など、長期に残さなくてはならない建造物だけだったようだ。衣類は、リネン、コットン、シルクがよく使われていた。象牙、金糸銀糸を使った繊細な工芸品、装飾品、彫刻なども好まれた。金、銀、鉛、ラジウムなどを扱う労働者もいた。ムー人は、身長175センチくらい、青い瞳と暗い金髪をもち、手の指は6本で足の指は5本が多かった。(ペルーの天野博物館に所蔵されている敷物の中央には、6本指の人物が描かれている。ペルーにはムーの血が濃く流れているのかもしれない)



ムーとレムリアは別物、という人もいますが、エドガーケイシーは同じものと言っています。



母音の名前が多い、ということから、日本やポリネシアの元となる文明、と考えられます。




縄文


縄文時代は不思議で、アトランティスやレムリアが沈んだと考えられる紀元前1万年(12,000年前)頃をまたいでいます。



アトランティスは、空・海上・海中を飛行する船(UFO?)を持っていたようですので、おそらくレムリアとも交流していたものと考えられます。



しかし、アトランティス、レムリアが沈んだことで、テクノロジーが失われていき、智慧だけが残ったものと考えられます。



縄文時代に関しては、以下の記事がわかりやすいかと思います。




以下、一部引用します。


ひとくちに縄文時代といっても、年代的にはものすごく長い期間です。
 縄文時代草創期がいまから二万年~九千年くらいの前。
 縄文時代早期が九千年から六千年くらい前。
 縄文前期から晩期が、六千年から二千年くらい前の時代です。
縄文時代は、通して見れば一万八千年くらいの長い期間なのです。


しかもおもしろいことに、縄文時代の発掘品に、まったく「武器」が出土しないのです。
植物採取や狩猟のための道具はあっても、人を殺すための武器、たとえば長い柄のついたハンマーのようなものが、ありません。もちろん刀剣や槍の類もないのです。
女性たちが繊細な彫刻を施した装身具や、美しく彩色された衣類で美しく着飾り、男性たちは武器を持たない。


日本では、そういう時代が二万年近く続いたのです。
これはすごいことです。

日本人は平和を愛する民族です。
戦いよりも和を好む。
そうした日本人の形質は、縄文時代に熟成されたものといえるかもしれません。



自然が豊かで、平和だったようです。




しかし、7,300年前、鹿児島で巨大噴火が起こります。


朝鮮半島でふたたび遺跡が現れる七千年前、なにが起こったのかというと、鹿児島県沖の薩摩硫黄島のあたりの鬼界カルデラ火山の大噴火が起こっています。
世にいう、アカホヤの大噴火です。
この噴火で地表に出たマグマは1兆3000億トンです。
噴出量の対数をもちいた噴火マグニチュードMで規模を表現すると8.1です。
火山灰は、遠く関東地方にまで達します。
これは日本における最大の火山爆発です。
アカホヤ噴火のあと、カルデラ破局噴火は、日本に起こってません。


こうしてみると、次のようなストーリーが読み取れるようになります。
1 アカホヤ火山灰の打撃の少なかった西北九州には、九州南部・中部からの避難民が押し寄せた。
2 急激な人口増加は、それまでの西北九州の果類、芋類といった植物食をベースにし、タンパク質の供給を魚に求める、補完的な小規模漁業では、食の供給を不足させた。
3 そこで、食を補うためにみんなで協力して漁業資源の獲得に乗り出し、漁のために遠く朝鮮半島にまで人々が進出した。
遺跡の出土品と年代は、そうした流れを如実に物語っています。

ちなみに、西北九州や朝鮮半島で大型の釣り針が発掘されたのと同じ時代というのは、Chinaはまだ黄河文明が始まる前です。
長江文明といわれる浙江省余姚市の河姆渡遺跡(かぼといせき)が発掘されています。
河姆渡遺跡なら、約七千年前の遺跡ですから、時代的にはほぼ同じ時期にあたります。
ここでは、大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見された。



この時に、多くの縄文人が、火山灰の影響の少ない日本海側や、関東、東北に移動したり、大陸に出ていったものと考えられます。


そのため、これ以降の縄文文明の中心地は、関東や中部にあったようです。




縄文時代に関しては、Toland vlogでもまとめられています。




また、縄文人に関しては、土器などから想像するしかないですが、ペンキ画家のSHOGENさんが、ヒントになるようなことをお話してくれています。




自然と調和して生きていたようですが、虫などの自然と話せたのかもしれません。



虫、鳥、イルカ、岩、山、神様、精霊、妖精、、



もしかしたら、自然と話せた(日本語 or テレパシー?)からからこそ、自然と調和して生きていたのかもしれません。




これは、レムリアの智慧が残っていたとも考えられますし、江戸時代まではある程度残っていた可能性があります。



そして、明治以降の西洋化によって、完全に失われたと考えられます。




ちなみに、縄文〜江戸の日本人の感覚のヒントは、「右脳」ではないかと思われます。



以下の動画もご参照ください。





以上、古代文明から縄文までの流れを見てみました。



次は、縄文以降の日本について見ていきたいと思います。




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