見出し画像

表側、裏側 / 「俺の家の話」と「生きるとか死ぬとか父親とか」について


・カードの表側

本題に入る前に、まずは1月クールの「俺の家の話」がとんでもなく素晴らしかったという話が欠かせない。

放送前から、話題と期待しかなかったドラマだった。何よりも大きな長瀬智也の退所前ラストを飾る作品、必須事案であった西田敏行の共演、彼らと長年タッグを組んだ宮藤官九郎脚本。そのどれもが本編の良し悪しには関係のない “世間と視聴者側の脚色” ではあったのだが、それを抜きにしたとしても作品単体として「これはエンタメ界やドラマ史に残る超名作が生まれた」と確信できた。
 
そして手のひらをくるっと返して真逆のことを言えば、どうしたってそれを抜きには出来ないほど ”寿一” の生き様は長瀬智也そのもので、“親父” からのメッセージは西田敏行からのエールで、“俺の家の話” は宮藤官九郎が描いた壮大な花道だった。現実に起こるすべてのことすらもまるで演出かのようで、その完成度にやはり伝説が生まれる瞬間を観られたことを改めて確信できた。

作中では、後継ぎに介護、離婚/再婚や教育など、家族にまつわる様々な問題が随所に散りばめられていたけれど、一貫して描かれていたひとつの大きなテーマは『親子間の赦し』だったと思う。


・「生きるとか死ぬとか父親とか」

さて、ここからがメインテーマだ。
4月9日からテレビ東京系で吉田羊さん主演の深夜ドラマが始まった。コラムニストやラジオパーソナリティとして活躍中のジェーン・スーさんご自身とお父様の可笑しくも切ない愛憎模様を描いた実話を基に制作されていて、父親役に國村隼さん、20代の主人公を松岡茉優さんというまるで邦画のような極上キャストが揃えられている。作中には実際のラジオを模した架空番組が放送されるシーンもあり、田中みな実さん演じるアナウンサーと吉田羊さんの掛け合いがこれまた至極絶妙なのだ。(TVerで視聴する際には、是非ともイヤフォンで聴いてほしい。羊さんとみな実さんのお声が本当に本当に良い!)

今期、各局が手掛ける春ドラマがあまりにも豪華キャストが並ぶラインナップだったので事前にこんな記事をまとめたけれど、その中でわたしは

>吉田羊さんの20代を演るのが松岡茉優ちゃんって見た瞬間に観てみようと思いました。そういう俳優さんっていますよね。大人がじんわりと愉しめる良質なドラマになりそう。

と書いていた。前情報からの予想だけでつけた視聴期待値は ★5/4.5/4/3.5/3 とあるうちの下から2番目(3.5)で、率直に言えば可もなく不可もなくといった印象だったのだろう。

しかし、初回を観終えた今なら分かる。

「これはたとえ伝説には残らなくとも、ある個人に深く刺さる傑作が生まれたかも知れない」ということが。驚くほどしずかに、それでいて怖いほど鋭く。たった30分で、いや開始2分で、心がまるごと持っていかれるようなドラマだった。


・カードの裏側

先程挙げた『親子間の赦し』というテーマが共通する両作。例えるならば1枚のカードのように「俺の家の話」が表側で「生きるとか死ぬとか父親とか」が裏側、という関係性に当てはめられるのではないかと勝手ながら推測している。


プロデューサーの佐久間さんが仰っているこの言葉の通り、表側の前者はプライム帯のTBSドラマらしく前述した家族の問題以外にも恋愛要素やコメディパート、驚きの展開だった最終回への伏線などクドカンならではのエンタメ要素が盛り込まれていたが、一方で裏側の後者は親子の日常と裏に隠された確執+ラジオでのお悩み相談という大きく二部にギュッと焦点が絞られた30分一本勝負のテレ東イズム満載深夜ドラマ、といった細部の装飾に似て非なる明確な違いが感じられる。

他にも背中合わせの関係性を感じる理由として、父親と息子/父親と娘、というメインキャストの組み合わせで派生した親子の空気感の違いも大きく影響しているように思う。実際に「俺の家の話」の中でも江口のりこさんが演じた娘の舞が、長く黙認されていた父親の度重なる浮気について「娘の方が覚えてるのよ」といったセリフを吐き捨てるように言い、それを聞いた当の父と息子達は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
同性・異性云々の話がしたいのではない。あくまでも個人的見解として、わたし自身が同じ “父と娘” という最小単位の家族で暮らしているからこそ、それが痛いほど分かる、とただ感じたのだ。


・フィクションとノンフィクション

両ドラマが持つもうひとつの共通点が「作品を通して自己に触れるきっかけになりうる」ことだ。

「《俺》の家の話」
「生きるとか死ぬとか《父親》とか」

観終えた後、無意識で《 》の中に自分自身を投影したくなる作品が存在する。家族、恋愛、友情といったジャンルに多く見られる傾向だが、中でも密度の濃い「親子」にフォーカスした両作はまさにその代表格と言えるだろう。
画面の向こうに描かれたフィクションの世界を通して、己が辿った/辿るかも知れないノンフィクションの人生を覗く行為。そこで得られるのは決して幸福な感情だけではなく、人によってはせっかく忘れかけた傷跡に触れてしまう場合もある。むしろ、その可能性の方が高いという気さえする。
それでも登場人物やストーリーに自らを重ねてしまうのは、きっとこの世の誰しもが誰かに育てられた人だから。“誰か” と関係性が良好な人、そうではない人、育てた人と育てられた人の組み合わせの分だけ果てしない物語が存在している。

とはいえ、最初から自分と向き合う為や答えを見つける為に気合いを入れて観る必要はない。観終えた後、そんなことまったく考えずにただ面白かったなぁで勿論充分だし、あえて意識的に考える努力も不要だ。ゆっくりお茶を飲みながら、洗い物をしながら、湯船に浸かりながら。何故だかふいに誰かの顔が思い浮かぶことがあるかも、という可能性の話だと捉えておいてほしい。


・赦すとか、赦されるとか

クローゼットに仕舞われた母親の古い日記帳と、機種変更して使われなくなった父親の携帯電話。

夜中に「生きるとか死ぬとか父親とか」を観終えてぼろぼろ泣きながら、真っ先に蘇った記憶があった。怖いもの知らずだった幼いわたしが開けたパンドラの箱から出てきたのは、“おとうさん” と “おかあさん” がわたしにそう呼ばれるよりもうんと前に、それぞれ一人の人間だったことを表す「知らない方がきっと幸せだったもの」たちで、この世には、わざわざ触れなくてもよいものが沢山あるのだと思い知らされた。

悪いのは勝手に暴いた自分だと知りながら、わたしは今もどこかでまだ父と母を赦せずにいる。手の届くところに置いていた迂闊さや、見たことに気付かない鈍感さや、子供には分からないだろうと思っていた余裕さに。しかしその一方、わたし自身にも当然自分が知らないところで彼らに見られては困ることがあるのも事実で、そんな自分を棚に上げて矛盾した怒りを抱えている現状にも総じて上手く折り合いが付けられない。

赦すとか、赦されるとか。
答えの出ない人生の問いかけを、わたしはこのドラマと共に追いかけてみたい。納得のいくゴールまで辿り着く!などという明確な目標や気概はなく、何故ならまずはただただフラットな心で素晴らしい作品を存分に愉しむことが先決だからだ。その上で、観て聴いて時には主人公と共にしばし過去に想いを馳せながら、苦しくも愛おしい時間をじっくりと味わいたいと思う。


「 ひとりでも多くの人にとって、
たった一人にとってのドラマになりますように 」


***



【 TVer 4/17(土)00:51 迄 】
https://tver.jp/corner/f0071826


価値を感じてくださったら大変嬉しいです。お気持ちを糧に、たいせつに使わせていただきます。