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時に世界は、眼鏡を外していたくなる


noteを始めてから、ふと書きたいことが思いついた時にその内容をスマホのメモに残している。

「日常」「恋愛」「自分のこと」「作品感想」など、ざっくりとカテゴリー分けをしたタイトルの下に箇条書きで思いついた順に幾つか。


その中に、この言葉がぽつりと書いてあった。
カテゴリーは「日常」だった。


時に世界は、眼鏡を外していたくなる


私は目があまり良くない。
すごく悪いというほどでもないが、まぁ決して良くはない。日常生活にはコンタクトが欠かせないし、家では眼鏡をかけている。少し乱視も混じっているので常に視界はぼんやりとしていて、裸眼で見えるものといえばせいぜい30センチ先のものくらいだ。

コンタクトや眼鏡をすると、良く見える。
当たり前のことを言っているが、これは目が悪い人からすると本当に凄いことだと思う。とても有難いことだ。
生活の質の向上どころか、身の安全に関わるレベルの話で助かっている。もはや裸眼で外に出るなんて考えられない。そこに待つ一歩外の世界は、絶望だ。怖い、怖すぎる。


だけど、私は時々無性に思ってしまう。

あぁ世界は。
時に世界は、眼鏡を外していたくなるなぁ、と。


ただでさえ見たくないものが蔓延る世の中に、便利な物はますます加速して増えていく。

ゆたかな世界、ゆたかな価値観。
私の、人々の望みは、どんどん叶えられていく。

止まらないことに、戻らないことに、違和感を覚えてもそれは後の祭りで。
これ以上見えていたくない。はっきりと認識したくない。

でも、どうしても今ここで目を瞑ってなかったことにする訳にはいかない。



そんな時、本来の自分であれば見えているはずの、ぼんやりとした世界がとても恋しくなる。
物事の輪郭が歪み、文字や顔は霞み、光と色だけが辛うじて識別できるような。そんなどうしようもなく不安定なあの世界が、とてつもなく恋しくなるのだ。


今見えている世界は、私には見えていないはずの世界で。
今見えていない世界こそが、私には見えていたはずの世界だったのに。


だから私は少しだけ、そうっと眼鏡を外す。
そして、あるがままの私を取り戻す。
不便で、不自由な。

でも、実は誰よりも何よりも自由な私を。


見えることだけが、すべてではない。
良く見えることで、良く見えていないことがきっと沢山あったりする。



ゆたかさって、何だろう

「見たい」という気持ちを強制されないこと。
「見たい」という気持ちを選択できること。


ゆたかさって、何だろう

「見ない」という気持ちを許容できること。
「見ない」という気持ちを尊重できること。



ゆたかなことを、誰かに押し付けてはならない。
ゆたかなことを、誰かに光らかしてはならない。

誰かのゆたかさは、誰かが決める。
私のゆたかさは、私が決める。


「ゆたかさって、何だろう」
その定義や物差しこそが、真にゆたかであるべきなのだから。





時に世界は、眼鏡を外していたくなる。

外して、まばたきをする。
世界と視界が変わっていく。

じわじわ、ぼんやり。ゆがみ、いびつ。


それでも私には、あたたかい何かが見えている。


価値を感じてくださったら大変嬉しいです。お気持ちを糧に、たいせつに使わせていただきます。