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「鬱も悪くなかった」そう思える今がある

なんだかとても息苦しい世の中になっています。

理由はそれぞれでしょうが、たくさんの人が苦しんでいる世の中は、悲しいです。

もう10年ほど前になりますが、私も心身のバランスを崩し、いわゆる「うつ病」と診断された時期がありました。

一個人の経験談ではありますが、必要な人に届いたらいいなと、今回はその時のことを少し振り返ってみようと思います。

【まさか自分がうつ病になるとは思っていなかった】

当時、仕事はとにかく忙しくて毎日深夜タクシーで帰宅する日々。土日も仕事になることも多く、言葉通り仕事一辺倒の生活を送っていました。

面白いし、やりがいもあった仕事。でも、30代の半ばに差し掛かるころから少しずつ自分の気持ちに変化が現れ始めました。それは、これまでほぼ皆無と言っていいくらいだった自分の私生活をもっと充実させていきたくなったのです。

でも、毎日がほぼ残業の当時は平日夜に予定を組むことも難しく、その上週末の予定も仕事に振り回されたりと、なかなかプライベートの時間を充分に作ることができませんでした。

ずっと仕事一筋だっただけに、反動も大きかったのだと思います。やっと楽しみたいと思えるようになってきていたプライベートな時間を、休みすら仕事に費やさざるを得ない状況にだんだんとストレスと重圧を感じ、思い悩み始めました。

これまでの私は、病気といった病気をしたこともなく、体力もある方で、まさに健康体そのもの。不調や病気とは無縁と思ってきました。

成長目まぐるしく忙しい職場だったので、そんな環境について行けずに心身の不調を訴える社員もいました。でも、当時の私はそういった辛い立場の人たちのことを「体力も気概もない人」と、今思えばなんとも冷たく思いやりのない思いで横目に見つつ、ひたすら自分の仕事に没頭する日々でした。

それに、周囲にもっと頑張ろうと葉っぱをかけながら駆け回っていた私を見て、同僚たちにも、「ストレス耐性が高いあなたは鬱とは縁遠いね」などと言われていたほどだったのです。

時間は限られているので仕事を削れない分は睡眠を削ってプライベートな時間に当てていました。そんな無理のある生活を重ねていたからか、強靭にして無敵?とも思えた私にも少しずつ綻びが出始めました。次第に心身の不調が表に出始めてきたのです。

何度考えても考えがまとまらない。集中できない。頭がぼーっとする。気持ちの浮き沈みが激しく落ち込むとなかなか元に戻れない、など。そしてだんだんと何かをすることが億劫になり人との約束も出来なくなっていきました。

でも、こうした心の叫び(サイン)が出ても、それでも私は、こうなるのは自分のやる気がないせいだ、自分の能力が足りないからうまく対処しきれないだけだ、などと、自分自身の心の声に蓋をするような解釈を続けながら、その状態のままなんとか乗り切ろうとしていました。

でもやはり、心はごまかしが効いても、身体は嘘を付けなかったのかもしれません。

仕事中、場面場面で、強烈な拒否反応が出るようになってきました。

思考停止、心拍の高鳴り、冷や汗、全身の硬直、、。目が開けられないくらいのドライアイ、膀胱炎、指先が動かなくなる(バネ指)、白髪、などにも悩まされました。

自分の中で、何かがおかしくなってきている。

毎日こんなに頑張っている。頑張った先には光があるはずだし、頑張らないとその光は掴めない。だから何とか頑張って乗り越えなければならない。

当時は本気でそんなふうに思っていました。下りエスカレーターで止まってしまったらものすごいスピードでどんどん下がっていくだけ、そんな強迫観念もありました。だから必死に必死に食らいつく。でも、そんな気持ちとは裏腹に、だんだんと一切の感情が麻痺していくような感覚だけが増していきました。

苦しくて現状から抜け出したい。でも、自分が身を置いている環境を変えよう、抜け出そう、という気持ちにもなれなかったのです。

それはまるで籠の中の鳥のようでした。飛び出したいけど、飛び出すことも怖い。そんな私は、ただただ必死でその場にしがみつくことしかできませんでした。

有能な人たちと、スピード感のある仕事をすることはとても刺激的ではありましたが、常に自分の能力の限界を突きつけられ、一山越えてはすぐにまた次の山、と一息着く暇もなかった日々は、刺激を通り越して苦行のような日々に変わってしまっていました。

ただただ機械のように働き続ける日々。そんな環境に身を置いてしまった自分は運が悪かったのでしょうか。

【外的要因はきっかけに過ぎない】

答えはNO。

今だからこそわかるのですが、環境が悪かった、と言い切れない理由もしっかりあったのです。

当時の私は

自分の意見を相手に伝えることがほぼ100%できていませんでした。

もちろん、お互いにとって取り止めのない会話の範囲内でのことであれば色々と思っていること、感じていることは話していたと思います。

でも、そうではなく、自分の本心。それは、もっと核心に迫るようなことだったり、相手にとってはもしかしたら軽く聞き流せないこと、交渉が必要なこと、だったり。「口に出しにくいこと」に関しは徹底的に避けていた自分がいたのです。

「こんなこと言ったら(相手は)嫌な気持ちになるんじゃないか?」

コミュニケーションを図る上で、相手の気持ちを慮ることはとても大事です。でも、実はこの気持ちの根底には、

こんなこと言って相手が不快になったら、言った私が変な風に思われるんじゃないか、馬鹿だと思われたら、嫌われたら、どうしよう・・・・・。

つまり、

「こんなこと言ったら(私が)否定されて(私が)嫌な気持ちになるんじゃないか」

と言う恐れが隠れていたのです。

だから、相手に否定されることから自分を守るために、ひたすらそうした場面に直面しそうになると避けて避けて、避け続けてきたのです。

それは無意識の保身の行動でした。気づけば、自分が傷つかないためにそうしていました。

表面的に何事もなく滞りなく収まるのであればそれに越したことはないし、ちょっとしたさざなみを感じても、すべて自分の心の中で処理すればいい。無用な争いは避けたいのだからそれくらいで害など何もないだろう。そう思ってきました。何なら、そうできることがスマートな大人の対応とすら錯覚していました。

でも、それは、相手に偽りの自分をみせること。そして、それは自分自身の心をも騙し続けてきたことに他なりません。

ずっと水面下に押し込められていた私の本音の蓄積が及ぼす影響に、後からジワジワと気付かされることになっていったのです。

【「感情」よりも「思考」で判断していた日々】

争い(実際、争いになるとは限らないのですが、、)を避けるために自分だけが1人で胸の内に収めておけばいい。そんな生き方を続けていたら、私は自分のことがまるで分からなくなり、そして私の身体は「鬱」というこれまでの私を強制終了せざるを得ない形で私にメッセージを送ってきました。

今、何が食べたい?
どちらを選ぶ?
今、どんな気持ち?
あなたは一体、何がしたいの?

・・・・・・・。

日常のとてもとても小さなこと。毎日自然に繰り返し問われ判断していること。そんなことでも私は、自分のことなのに、何一つ自分で決められていないことに気づきました。

考えても、懸命に心を探ってみても、分からない、、のです。本当に。

自分のことなのに。分からない。

自分の心の声がほとんど聞こえなくなってしまっていたのです。

私の心(魂)と身体は完全に分離しているような感覚でした。

そこからは、今、何が食べたいのか、休憩したいタイミングはいつか、それはイエスか、ノーか。一つ一つ立ち止まって、じっくりと自分の思いと納得できるまで時間をかけて考えました。そうまでしないと、自分の「感情」が分からなかったのです。

それまで、日常生活の無意識に足早に決めていた決断の数々は、ほとんどが瞬時に周りに合わせて回答していた私の「思考」だったとも気づきました。

私がいなくなっている

そう思いました。

目に見えない自分だけの感情。気持ち。それを、他の誰にもわからないものだからと周りに合わせてばかりの私は疎かにしてきてしまいました。きっと周りもみんなそうしているだろうというくらいに。

そして、図らずとも「自分自身」をぞんざいに扱ってしまった結果、私は心身に大きなダメージを負うことになりました。

【楽だから依存してしまう、でもその結果は】

自分のことが分からなくなる要因はもう一つありました。それは、相手に依存する、ということでした。

嫌われたくないがために、自分を偽り、自分を偽るということは自分の意思はだんだん不要になってくる。意思が不要になる、それは完全に自分以外の何かに依存をすることでした。

自分で決めなくていいのですから依存はある意味、楽なのです。自分で考え、立ち向かわなくていいのですから。そして、相手にとやかく言われることもないのですから。私は何かにつけてこの依存スイッチを作動させるようになっていました。

でもこれまで述べてきた通り、自分の心に背く生き方は確実に自分を蝕んでいくことを私は身をもって体験してきました。

【失ったものと得たものと】

完全に自分を失って、ようやく気づけたことがあります。

それは、心と体はつながっている、ということ。

当たり前すぎ、ですよね。。でも、このことを本当にそうだなって気づいていて、日常の中で意識して過ごしている人は実は多くないのかもしれない、と思ったのです。

日本人、真面目です。自分のことを考える前につい周囲に目を配ってしまう人、たくさんいそうです。

私は鬱という経験から、自分自身の心の声に気づき、尊重することの大切さを痛感しました。

他にも、たくさんの気づきがありました。

正面から向き合った先にしか見えない世界(それは自分にとって有意義な)があるということ。
環境(ではなく「自分」)から逃げてしまっては、自分とも、他人とも本当の絆は結べない、ということ。
今起きている苦しみは、自分を苦しませるためだけのものではない。自分にとって良い方向に軌道修正するための道標(サイン)だということ。
頑張るは大事。でも掛け違えないこと。自分の気持ちに蓋をして頑張る先には自分の求めるものは何もない、ということ。
頑張っている自分をもっと認めてあげればよかった、ということ。

自分自身を大切にする生き方こそが、心と身体が繋がり喜びを感じる生き方につながる、ということを、私は鬱を通して学ぶことができたのです。

自分を守らなければならない場面が、最初はあったかもしれない。でも、いつしか傷を受けるのを避けることばかり考えるようになってしまい、チャレンジすべき場面さえも自分を甘やかし避け続けてしまった自分がいました。

そして、生きることって決して楽じゃない。向き合えば向き合うほど大変だったり苦しかったりする。ことが普通の状態。

そんなこともちゃんと受け入れようと思えるようになりました。できることなら楽して生きていきたいと思うのが人間かもしれませんが、そもそも波乱万丈な世界を楽しむために人は生まれてきているのかもしれません。

でもどんな状況にあれ、そこに嘘偽りなく真摯に向き合い続けることが、本当の意味で自分を大切にすることに繋がるんだなと思えるようになりました。

このことに今、気づけた私はラッキーです。まだまだ人生は長いですから!

本心からちゃんと向き合っているか、どうか。

時折足を休め、心の声に耳を傾けてみるのも良いかもしれません。

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