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仏教の広がりを捉える時に使える、2軸で捉える考え方

仏教には、たくさんの宗派があって面白いものです。一見すると「本当に仏教としてくくっていいの?」と思うぐらい考え方が違うものもあります。今回はその広がりを、利己的と利他的、自力と他力、という2軸で考えてみます。

これは趣味的な解釈(β版)なので、事実とズレている部分があるかもしれません。もし気づいた方がいたら、教えていただいてアップデートできたら良いなとおもっています。

利己的x自力の仏教

初期の仏教(釈迦の仏教)では釈迦自身は自力で悟った(仏になった)ことになっています。そして、しばらくした後、釈迦は他の人たちも自力で悟れるようにしようと利他的に考えるようになって、教えを広めるようになっていきます。

なので、この時の考え方は利己的に自力で悟ること(利己的 x 自力)が基本となっています。釈迦の利他的なサポートはあっても、あくまで自力で悟ります。

個人的には、このころの仏教は、あくまで一人の人間が世の中や自分の捉え方を変えていくための思考法のようだと思っています。

ただ、このような自力的な考え方は、救いを求める人からするとなかなか厳しい教えでもあります。

利他的x自力 & 利己的x他力の仏教

そのような厳しさの影響もあってか、仏教が広がるなかで、より利他的な側面(利他的 x 自力)が悟るための行為として重視されるようになります。これは、利他行といわれたりします。

このような存在がいることによって、救いを求める人が自力で頑張らなくても救われるのだ(利己的 x 他力)という道筋が立てられるようになります。

このような考え方の到達点の一つに、自分に帰依する(優れた者を頼みとしてその力にすがる)人が、全員悟るまで仏にはならないと誓った人がいます。このような「利他的 x 自力」の極みのような存在は、阿弥陀(あみだ)と呼ばれています。

阿弥陀は、帰依した人が誰でも悟れるように、死後に悟りに至るための理想空間として極楽浄土を用意してくれています。そして、阿弥陀はすでに仏になっています。

つまり、南無阿弥陀仏(阿弥陀という仏に帰依します)と、心の底から信じて唱えれば、死後に極楽浄土にいって悟れることが確定しているという(利己的 x 他力な)考え方です。

個人的には、この頃の仏教は、超人的な存在に救いを求めるという点では、一神教の宗教に近いところがあると思っています。

おわりに

こんなに幅があるのに、すべて「仏教」というひとつの枠の中に収まっていることがなかなか興味深いですよね。ちなみに、佐々木閑先生がyoutubeでていねいに仏教の世界観を解説してくれているので、詳しく知りたい方はこちらをご覧いただくと良いと思います

仏教史を見ていると、時代の変化や人々のニーズの変化に合わせて、より多くの人が救われるように試行錯誤してデザインされてきた様子がうかがえます。だからこそ、長く、多くの人に求められる存在になっていったのだと思います。現代だからこその仏教の変化もありえそうです。

このように考えてみると、現代において、時代やユーザーの変化に合わせてサービスを進化していくことにとても良く似ているなと思ったりもします。世界で最も長く進化し続けているサービスの一つだと捉えてみると、学ぶところも多いかもしれません。

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