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石巻が育てた天才彫刻家たち 第1部 英吉と達⑥ 昭和18 年【2つの新聞記事】

 私の目の前に達が所有していた「日本彫塑」(昭和16年発行、非売品)という本があります。今いる場所は、何度か登場しているしばたの郷土館(柴田町)です。これによると達は「塊人社」(昭和4年創立、25名)、英吉は「東邦彫塑院」(昭和10年創立、136名)に所属していたことが分かります。

1日本彫塑

達が所有していた「日本彫塑」

 達の日記に生前の英吉が出てきたのは昭和14年が最後でしたが、達の足跡を調べるためにその後も日記をめくりました。昭和18年9月25日に挟まっていた2枚の新聞の切り抜きを広げた瞬間、涙があふれてきました。亡くなった英吉に関するものだったのです。

 どちらも新制作派展で「聖観音立像」と「不動明王像」が展示されているという内容で、英吉が亡くなった後に関する新たな資料が発見された瞬間でした。

 まずは、芸術新聞の記事をお伝えします(旧字体は修正)。「木彫界の麒麟児 高橋英吉氏戦死 転戦中ガダルカナルにて」の見出しで始まり作品紹介に続きますが、どちらの作品も石巻の方たちは知っていると思うので、新制作派の本郷新が語った英吉への思いを紹介します。

 「高橋氏は文展無鑑査であるが、かねて、新制作派に加盟の約束が出来ていた矢先名誉の応召で、出征し、ガ島で戦死したのです。それで会としては会員待遇として特別陳列したわけです。高橋氏は文字通り温厚篤実な芸術家らしい芸術家でした。そして若い作家の中では日本木彫界の中でも本当の実力をもっていた僅か一人二人のうちの一人だったでしょう。師傅の型にとらわれず、純粋な精神を生かし、全く実力ある作家で、木彫家でありながら塑像もつくれたというほど、腕の確かな人でした。また同氏を思う同級の柳原義達、佐藤忠良、吉田芳夫氏等の友情にも泣かされますが、それだけに高橋氏がいかによい人であったかということがいえるわけです。惜しい人を死なせましたが、現在はそんなことも惜しんではいられない時代なのでしょう。我々が倒れるまで高橋氏の分も働く覚悟を持つことで、冥福を祈るだけです」と書かれていました。

2切り抜き

英吉の戦死を伝える記事。これも達が遺した

 「新制作派」は昭和11年に創立され、14年に彫塑部が加わりました。彫塑部には本郷の話にも出てくる佐藤忠良、柳原義達の他に舟越保武らがいました。昭和16年に戦地に赴いた英吉は、帰国後ここに所属することになっていたんですね。

 今回は、ここでおしまいです。2枚目については、次回紹介します。そしてさらに…。

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