見出し画像

「夢でもいいから会いたい」 東松島市矢本・雫石嘉伸さん

 未曾有の大災害となった東日本大震災から間もなく10年を迎えます。石巻市、東松島市、女川町から成る石巻地方は悲しみの中から立ち上がり、復旧、復興を遂げてきました。そこには一人一人の思いや願いがあります。地元紙として「次代への軌跡~東日本大震災から10年」を企画し、歩みを振り返りつつ、人の心に触れました。

津波で家族5人失う

 「たまに夢に出てくるんだ。何気ない日常のような夢だが。それでも会えることがうれしい」。震災の津波で両親と妻、長男、三女の5人を失った。

 あの日、石巻工業港で大型トラックに資材を積み込み、雫石嘉伸さん(62)は、間もなく帰社しようとしていた。そこに激しい揺れが襲う。積み荷は固定され、崩れることはなかったが、立っていられないほど。

 3日前も青森県で仕事中に地震があり、妻秀美さん(当時48)から電話で「大丈夫。気を付けてね」と案じられたばかりだった。雫石さんは東松島市大曲の自宅に戻らず次の現場に直行したため、夫婦で交わした会話はこれが最後だった。

 黒い津波から逃げるように内陸部に車を走らせ、雫石さんは一命をとりとめた。車内で夜を明かす。家族の携帯電話に何度もかけるがつながらない。「生きていてくれ」。それだけが願いだった。

 両親と対面を果たしたのは約1週間後。遺体安置所で確認が取れた。地震の後も自宅で片付けをしており、近隣住民が避難を呼び掛けたが二人ともとどまっていたという。「古い家だったので家ごと流されたようだ」。後から近隣住民の証言で状況がつかめた。

3・11雫石さん (44)

「名前と住所が書いてあったのでグラブが見つかった。でもこれ一つだけ」と話す雫石さん

 当時、長女は仙台市に住んでおり、次女は避難所となった石巻市内の中学校にいたため無事だった。長男達彦さん(同21)、三女いずみさん(同14)は秀美さんと車で逃げた後の消息がつかめなかったが、達彦さんは大曲市民センターの周辺で発見された。

 発災から約2カ月経とうとしたころ、北上運河に沈んでいた軽自動車が見つかり、所持品の運転免許証から乗っていたのは秀美さんと分かった。雫石さんは毎日、避難所や遺体安置所に足を運び、家族の姿を探した。「いずみはどこだ」。三女の手掛かりを追い続けた。

 その後、いずみさんを見たという証言にたどり着いた。いずみさんは津波で流されてきた屋根の上にはい上がり、そこにはすでに4人がいたという。屋根は引き潮で海側に流され、4人は工業港周辺で遺体となって発見されたが、いずみさんの姿はなく、今も見つかっていない。

 8人いた家族は3人になった。いずみさんの死亡届を出し、23年9月に家族の葬儀を営んだ。「墓にはネームプレートが1枚入っただけ。骨の1本でも見つけてあげたい」。いずみさんは中学でソフトボール部の主将を務めており、雫石さんは「足が速くて明るく元気のよい子だった」と目を細める。

時間が癒やすも 7段目

 雫石さんは27年12月に矢本地区内に住宅を再建した。次女も上京し、この家に一人で暮らす。震災復興を10段の階段で例えれば7段目。「時間がある程度心を癒やしてくれているようだが、思い出さない日はない。特に毎年3月11日は寂しさが募る」。その日はすぐそばに来ていた。

 昨年春から東松島市の臨時職員としてバスや公用車を運転しており、自宅庭では畑を耕して果実や野菜を収穫する。駆け足で過ぎてきた10年。今も震災の余震はあり、警戒は怠らない。「家に残ったり戻ったりした人が犠牲になった。大津波警報が出たらすぐに逃げることが大事」と話す。

 震災後の遺失物で野球のグラブを見つけた。名前と住所が書いてあったのですぐに分かった。「前の家は庭が広かったからね。このグラブを使いまわししながら、みんなでキャッチボールをしたんだよ」と懐かしむ。

 長女の成人式の日に自宅玄関前で秀美さんが撮った写真には笑顔の三姉妹と両親の姿があった。当たり前の生活とは何か。幸せとは何か。写真を手に雫石さんは過ぎ去った10年を振り返りながらつぶやく。

「夢でもいいからもう一度会いたいよ」

【外処健一】


現在、石巻Days(石巻日日新聞)では掲載記事を原則無料で公開しています。正確な情報が、新型コロナウイルス感染拡大への対応に役立ち、地域の皆さんが少しでも早く、日常生活を取り戻していくことを願っております。



最後まで記事をお読みいただき、ありがとうございました。皆様から頂くサポートは、さらなる有益なコンテンツの作成に役立たせていきます。引き続き、石巻日日新聞社のコンテンツをお楽しみください。