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「自己肯定」は荷が重い


自己肯定感ってもっともらしい言葉が好きになれない。
こどもには、自分は自分なりに幸せ!とおもって生きてほしい、っていうことだとおもうんだけどなあ。難しいことばはいらないのにね。


このあいだ、何気なくツイートした上記の思いを、掘り下げてことばにしてみることにしました。
なお、元のツイートではしっかり誤字していて、ここではちゃっかり直しているあたり、我ながらADHDらしさが出ているなと思いますが、それはさておき。



みんなのこころとの異和


わたしは、「自己肯定感」ということばがどうしても好きになれません。

もちろん刺さる人にはとても良く刺さる考え方で、これが刺さる人の数はとても多くて、なるほど上手い表現だとおもう感覚も分かります。


でも、わたしは率直に言って、嫌いです。
そのもっともらしさが、見ず知らずの他人にわかった振りをされているようで気に入らないのです。
あっという間に多数派向けの概念になってしまったから、かもしれません。
斜に構えた厨二病のようで恐縮ですが、多数派が構築した概念の輪に、わたしはいつも弾かれてしまうように感じます。

字面から得た勝手な第一印象を飲み込んで、我慢しながら関連書籍を読み込めば、あるいはわたしだって何者かに変われるのかもしれません。


でもきっと、それはわたしではないんだと思います。


小心者なので注釈を入れさせてもらうと、自己肯定感ということばが流行ること自体を否定したいわけではなく、自己肯定感を高めたらいいよ、という善意の励ましを無下したいわけでもないのです。
ただ、わたし個人はとても苦手に感じると言いたいだけで。



まだその光を当てないで


そもそも「考え方を変えてみよう!」とか「すべては自分次第!」という類の激励が、わたしはなかなか受け入れられない傾向にあります。
頭の構造そのもの、根源にある自分そのものと、まだまだ向き合えていないからです。

イチからジュウまで納得できるまで動けない、そういう特性故かもしれません。
いまの自分に納得するというポイントの前で、すでに長らく迷子になっているので、肯定するとか否定するとかは遠い彼方のその先ことのように感じています。


ふーん、じゃあ、そのままでいいと思ってるの?と痛いところをついてくる人が、多い世の中です。
むしろ、変わりたい気持ちは人一倍以上に強いのです。

ただ、わたしにとっては、自分を肯定する、更には、自分を変革する、というステージが、エベレスト並みに高さにあります。
そこへ登るためには、自分を分解して、分析して、理解して、納得して、受容してと、たくさんの段階が必要です。
いまのわたしは、小さな小さなステップを、一段ずつ登っては足元を確かめ、次の段をせっせと組み上げているところなのです。

そんなとき、強い強い“変化を期待する励まし”を向けられると、遥か頭上から強烈な光を当てられたような気持ちになります。
眩しくて、眩しすぎて、せっかく築いたちっぽけな階段から、かんたんに転げ落ちてしまうのです。


私だってそこを目指しているのに、いつまで経っても辿り着くことができないのです。

簡単にできないからこそ、誰にでもできる前提で、さあ今すぐやってみよう!できるでしょ?なんでやらないの?という見えない(少なくとも常人にとってはそもそも存在しない)“圧”を過剰に読み取って、逃げ出したくなるのです。



子のしあわせのために


自分についてすらそんな具合なので、子に対して自己肯定感を高めよう、そんな育児を頑張ろう、とは到底なれません。

あちこちの資料をつまみ食いした感じでは、本人を否定する言葉を使わないとか、親自身の過剰な卑下を避けるとか、いまの自分が気を使っているものもありました。
つまり一部においては、結局同じことをしているわけです。


もちろん、我が子にはいつでも、しあわせを感じていてほしいです。


でもそれって、「自己肯定感」によらないと達成できないものなの?


他人の作った、しっくりこない概念に乗っかって、それに追い立てられて、また迷うくらいなら、それを手に取ることを躊躇います。


わたしは、彼女が「自分なりのしあわせな生き方」を見つける手伝いをしたいし、そのひとつの見本になるように生きていきたい。

そして、彼女が躓いたとき、しあわせでないと感じたときには、できる限りそばにいて安心させてあげるくらいしか、できないと思っています。
するべきでないとも、思います。


それでは、足りないのでしょうか。



自己肯定感、それ自体はとても素敵な考え方なのだと思います。
でも、そういう言葉を前向きに発せられるひとたちにこそ、その言葉が決して万能でないことを、すべての人に迎合しうる言葉でないということを、知っていてもらいたいと思うのです。



自己肯定感という概念の方も、きっとわたしのこと嫌いだろうなあ。
なんか、ごめんね。





おしまい。