ニート職分論:働くことが本当に偉いことなの?に対する答え

ニート(または、ひきこもり、ゆとり)という職分を論ず。

人間は全生態系の中では、圧倒的に「消費者」だ
しかし、人間は、人間社会()という特殊な生態系を持つ。
その中で人は人に喰い喰われ、職業という様々な社会的地位、役割と身体を同化している。


職業にはそれぞれに特有のカルマがある。互いに補いあっていて、職自体に優劣も良悪ない。
自然的なものを人間的なものに落とすことが人の営み、職業である

裁判官は白黒つける債務を負う。無責任に人の価値を決める者。

商人は財貨に関する債務を負う。無責任に人に消費させる者

医師は生かした命の債務を負う。無責任に人に施す者。

学者は学識向上の債務を負う。無責任に人を啓く者。

詩人は共感させることの債務を負う。無責任に人を癒す者。

為政者は均衡をとることの債務を負う。無責任に人を摂取する者。

どの職も理性的で、非現実的な人間社会の中でしか成立し得ないものだ。

ある職業によって生じた「儲け」は同時に生じた「債務」に等しい。

したがって現代では無職の者だけが純潔たりえる
ひきこもりの不浄への鋭敏さと排斥力は以ってある種職業的である。

社会に対し過度に働きかけず自己完結している者が最も清く人間的である。
昔であればそれは「百姓」と呼ばれ、
今であれば「貧困」と蔑まれて問題視される。

働いて何かを得た気になるのは、自分が他人の債務を補償するより多く他人が自分を補償してくれているからである。
つまりこの時、誠実さや勤勉さは傲慢さとほぼ等しい。
我々は本来、生きる上で何かを得ることもないし、何かを失うこともない。いつかは尽きる肉体と精神であるから。

分かり合うとは、一律の解を共有することではなく、互いの差異を認め合うことだ。
自分が是と思うことを他人も是と思うことができるか、またそれを実行に移すかは、個々の相互干渉次第であり、不意にもらす不平不満でさえも干渉の一形態ということになる

当然、無為を以って啓蒙を啓蒙するということが起こるのもこれもまた自然であり、それをどう人間的と捉えるかは最終的には人民の器量次第である。

行動を起こすも、声を上げるも、息を飲み続けるもすべて自由。

職業選択の自由とはなんだ

国民の三大義務:教育・勤労・納税とはなんだ

その人にとって何が正しいかなんて誰にもわからない

どうも「正しい世の中」では「正しいこと」も簡単に正しくなくなるらしい

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