完全独立自律的因果:自業自得の理論さえ、摂理の前では粗悪品

どうでもいいことだけど、また書かずにはいられなかった。
途中にあるリンクはそれぞれに関する過去の記事に繋がっています。


彼は言った「嫌なことがあったんだ」
私は聞いた「なにがあったの?」
彼は言った「嫌だと思ってしまったんだ。だから、嫌なことがあった」
私は言った「君、それはどうしても必要なことだったんだよ」
彼は応えた「その通りだ。正直、何も嫌ではなかった。でもあれは確かに嫌がるべき事態だったのに、心の隅に喜ぶ自分がいたんだ。それがたまらなく嫌だった。」
私は言った「そんな君も好きだよ。いつも一緒にいてくれてありがとう。」
彼は言った「ほら、また今 嫌なことが起きた」


<縁起・因果律の誤謬>

・夏だから暑いのか、暑いから夏なのか
・恋人だから好きなのか、好きだから恋人なのか
・まずいから嫌いなのか、嫌いだからまずいのか
・卵が先か、鶏が先か
・思ったから感じるのか、感じたから思うのか

以上のような疑問が湧くのは、

・認知的不協和の解消、順接か逆説か
・原因と結果、前と後、過去と今と未来

このように物事を時間的/便宜的に分けて考えるから
考えるという行為が、分断を起こすからだ

思索的誤謬は思索では解消されない

因は転じて果となり、果は転じてまた因となる
:卵から鶏が出て卵を産む。
 これ即ち、卵が卵を生み、鶏が鶏を産んでいるのだ。

過去はかつて未来であって今であった
:10年前、今のことなんて想像もつかなかった

このような感覚的ループ、鎖状の関係性を私は「系鎖」と呼び、
大小様々な主体(系鎖応答体)を内包するそれを「連続的複雑系」と呼ぶ
これは別名、命、神、宇宙、量子、この世などと言われたりもするが、固有名称が与えられると途端に部分的になり全体性の息吹を失うため、便宜上、人口に膾炙していない呼び名を与えたにすぎず、本来記号で表せるような単純なものではないことは承知する必要がある。
∵それぞれがそれぞれを好きなように呼ぶのがベスト

だから「この世」を完全独立自律的因果(摂理)内、「あの世」を因果外と定義したければすることだってできる。言葉とは本来このように存外自由であって、

言葉とて、生モノとして新陳代謝を行わなければならない。知らず知らずに形が変わり、中身が変わり、触感が変わり、印象が変わる。これは避けられない摂理である。

その意味で、辞典、教典、聖典、記録、法令などは
食品添加物や保存料などに似て、その多用は健全とは言えない。

子どもの頃、みんなニックネームなんかで呼び合っていたでしょう。社会的地位の名称なんかじゃなく、コロコロ気分で呼び方を変えちゃってさ。あれがほんとに素晴らしいことだと思う。

いくら取り溜めてもデータは所詮データ、架空による架空のための代物なのさね


<脱思索的誤謬>

1.「悩むことは知性の証であるとともに愚者の証でもある。」

2.「一々、要素に分解するのは良くない」

3.「部分的なものは呪われてる」


また、悩むこと・考えることの贅沢さについてはこちらから

行き詰った時に視野を広げることは必要だが、急激に広げすぎるのも問題なので、無理はせずにちょっとずつ味見していただきたい。

また、誤謬を誤謬のまま受け入れるという態度も場合によっては悪くないだろう。

それも一つのであり、豊かさだから


<結論>

それはそれ、これはこれ。でいいじゃないか

予想が外れたら共有して、

間違いがあったらみんなで考えて、

人に答えを求めず、

元からすべての責任を負うつもりで。

そんな度胸と気概があれば、

どんな後悔も悪態も数ではない。

数が数でなくなり、言葉も言葉でなくなって、

やっとこさ心と心で通じ合える。

やったね


<予備知識>

因果応報:一切が自らの原因によって生じた結果や報いであるとする考え方。「善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす」といった考え方自体は、仏教に限ったものではなく、世界に広く見られる。ただし、仏教では、過去生や来世(未来生)で起きたこと、起きることも視野に入れつつこのような表現を用いているところに特徴がある。(wiki)

善悪無記:すべては善か不善か無記に分類できるとする仏教理論

無記:論述することができない事柄のこと。
つまらなすぎれば有覆無記、極上であれば無覆無記



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