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[転載]自己肯定感は必要ないし、多様性は許容の対象ではない

転載元:自己肯定感は必要ないし、多様性は許容の対象ではない - 折り合いカフェ

はじめに

 写真を撮ること、写真を観ること。長く続けていると意識的に分類せずとも自分の好みの作風というのがわかってくる。どうやら感情を込めずに一歩引いて撮影した作品や、そのようなスタイルの写真家が好みらしい。グラフィックとして成立させた写真。

 あれこれと(人が言うには)波風の立った人生で、それに対抗するためなのか受け流すためなのか、自分の中で思考と感情が切り離されて存在することが多くなった。
 そんな状態でこの文章を書いているので、感情的には違和感を覚える人もいるだろうと思う。でも、いったん、それは無視して筆(キーボード)を進めることにする。

自己肯定感は必要ない

 冒頭で話題にしたので写真を例にしてみれば、作品として公開された写真の価値というのは本来は観る人に委ねられる。一方で、第一人者が評価したから価値が上がるというケースのほうが多いというのも理解できる。

 それでは、人の価値というのはどうやって決まるのだろう?
「測定する物差しによって変わる」というのは無難な回答だという気がする。憧れのアイドルや俳優に部下として仕事をしてもらいその人事評価をする状況を考えてみる。高い評価をするイメージは湧いてこない。

 どこに置かれたか、そして誰が測るかによって人の価値は変化する。そんな不安定なものが重要だとは思えないでいる。

 さて、(ようやく)本題の「自己肯定感」について考えてみる。
 ここからは「意義」という言葉を使うのが正しいと思うのだけど、わかりやすさのために「価値」と書くことにする。

 自己肯定感。いろいろと定義があるらしいのだけど、ざっくり言うと「自分を肯定する気持ち」「自分に価値があるという気持ち」というのが一般的らしい。自己肯定感は高いほうが良いとされていて、ネットにも書店にも「自己肯定感を高める方法」が大量に並んでいる。

 まあ、言いたいことはわかる。だけれど、そもそも自分を「肯定」と「否定」の天秤にかけるという行為は必要なのだろうか?それは、逆説的に、自己肯定感を揺るがす行為なのではないだろうか?
 自分を肯定するだとか価値を認めるだとかというのは、そのために価値を測定することが必要で、その上でポジティブな評価を下すということだ。上でも書いたのだけれど、人の価値の測定は不安定な行為だ。自分をその対象とすることに良いイメージを持つことができない。

 うっかり自分を天秤にかけてしまい(それはよくあることだと思う)「否定」のほうが重くなってしまったら。そうなっても、思うところはある。

 人は、価値がなくても存在していて良いのでは?

 なぜなら、ただ存在しているから。ただ存在しているのだから、誰かが価値をつけてもつけなくても存在している事実は変わらないし、基本的に「存在すべきでない」と言う理由を作ることはできない。(「基本的に」と書いたのは、存在と存在が排他的となる状況がある気がするから。殺人など?)
 現在の日本だと、大抵は資本主義における価値判断をしてしまいがちだと思う。でも、それはひとつの物差しでしかない。

 試しにボランティア活動をしてみるといい。自分では大したことないと思っていたスキルが役に立ったり、スキルなど関係なくお手伝いしたことを感謝されたり。自分に価値があることを認められる瞬間。
 それは、資本主義でいう生産には該当しないのかもしれないけれど、何々主義に囚われることはない。要は、存在している限り価値はいかようにも生み出せるということなのだと思う。
 ちなみに、実際に活動する必要はない。思考実験的な感覚でイメージしてみると良い。(もちろんボランティア活動する余裕があるなら実際にやってもらいたいと思うけれど)

 テレビに出てる人を「すごい人」だと判断するよう、社会に刷り込まれてきた。今だとテレビに出る人ではなくてYouTuberだろうか。
 でも、それは職種の違いにすぎなくて、メディアに露出する人の価値が高いわけではない。メディアに露出する仕事をしてるだけだ。テレビに出たいとか、YouTubeのチャンネル登録者数を増やしたいとか、そういった考え方自体が刷り込まれたものだと思っている。
 ものの価値は置かれた場所と見る人で決まる。
 大人気のあのYouTuberも僕には価値がないし、一方で、チャンネル登録者数が2桁のYouTuber(と呼ぶのか?)の動画を繰り返し観たりする。

「ダイヤモンド」と聞いて宝石としての価値を考える人もいるし、その硬さから工業用としての価値を見出す人もいる。僕のようにダイヤモンドに興味のない人もいる。(けれど、工業用ダイヤモンドの恩恵にはあずかっている)

 そういう感じで、普遍的な価値があるかどうかの判断は不要だし不可能なことのように思う。そもそも「自分」の価値を測ることには意味がないのではないか。
 繰り返しになるが、自己肯定感を高めるということは肯定するために価値判断が必要なのだけど、しかし自分というものは価値判断の対象ではない。
 場面が変われば誰かが価値を見出すわけで、ただ存在しているだけのものの価値を測ることに意味はないし、価値を測ろうとするからネガティブな感情が生まれるんじゃないだろうか。

 勉強ができないのはその科目が向いていないだけで、仕事ができないのはその仕事が向いてないだけ。そんなことで全体的な価値は測れないし、測る意味もない。

 ただ存在している。それでよくない?

多様性は許容の対象ではない

 ここまでの考え方を発展させて、「多様性を許容する」ということについても考えてみたい。

 親族と同居していない多子世帯のシングルファーザーとなって、日本の家族形態としてはマイノリティに属することになった。その頃から多様性の許容ということを重要視するようになって、常に最優先事項に置くようになっていた。
 そして、あまりに重要視しすぎて、多様性の要素と要素の間にコンフリクトが生じて頭が混乱している時期が続いた。つい最近までのことだ。

 ずいぶんと長い時間がかかったが、混乱を解消しようともがいているうちに、ふと気がつく。「自己は肯定する(それ以前に価値を測る)対象ではない」のと同じで、多様性も「ただ存在する」ものであって許容する対象ではない。
 受け入れるだとか、受け入れないだとか、そういうものではない。許容するか否かに関わらず、ただそこに存在するもの。

 ここで、「存在することを受け入れること」が「許容」なのではないかと指摘されそうだが、それは許容するというポジションを取る人の問題であって、そこに存在するという「事実」は変わらない。(というのが反論として成立するのかはわからないけれど)

 人は物事を二元論に落とし込みがち(そのほうが生活や社会制度はシンプルになる)だけれど、多様性にはグラデーションがかかっている。
 ここでは詳しく書かないが、例えば、性的指向は(おそらく)比較的区分しやすく、一方で、狭義の性的指向と恋愛指向との組み合わせとなるとバリエーションが増えるし境界線も曖昧になることを思い浮かべてみる。さらに変数をいくつか追加していくと、最終的にマジョリティは細かく粉砕されと思う。

 マジョリティがマイノリティを許容するのではなくて、マイノリティが多様に存在する、ただそれだけ。

 そのことに気がづかず(あるいは気づきつつも)、従来のマジョリティを基準として社会が設計されている。多様性がただ存在する社会では、これを全パターンに対応できるように変えていきましょうということだと思っている。
 もちろん、莫大なコストがかかる。一方で、コストが比較的小さいものもあるはずだ。

 選択的夫婦別姓制度を導入するとか、同性パートナーに婚姻と同等の権利を与えるというのは、比較的コストが小さいような気がする。(詳しくないので断言はできないけれど、少なくとも選択的夫婦別姓については外国人との婚姻では運用に乗っているのでそれほど莫大なコストがかかるようには思えない)
 民間のレベルで例を挙げると、就職面接で読んでる本や新聞を聞いてはいけないというのは普及してると思うのだけど、その延長で年齢や家族についても聞かないようにするというのは実現できそうだ。もっと草の根レベルの話をすると、子どものいない夫婦に子どもを作る意思について確認しないよう啓蒙するというのもある。

 誰しも何かしらの特徴があってそれぞれの思想があって、ただ存在している。「自分も多様性の中に含まれる」ということに気がつかずに上から目線で「許容する」などと言っているから混乱するのだ。

 ただ存在している。それでよくない?

おわりに

 生きる意味だとか、生きる価値だとか、そう言ったものは存在しないと思っている。
 DNAの複製の仕組みやDNAからタンパク質が合成される仕組みはとても美しい。美しすぎるためだろうか、精密な機械仕掛けであるかのように錯覚する。そう動くような構造をしていて、構造によってそう動く。そこには意味や価値は存在しない。

 人はなぜ、ただそこにあるものに意味を持たせようとするのだろうか?
 (お気に入りの茶碗が割れたことに意味はあるのだろうか?)
 人はなぜ、評価対象ではないものの価値を測ろうとするのだろうか?
 (「自分」と「CapsLockキー」はどちらの価値が高いのだろう?そもそも「自分」は評価対象なのだろうか?)

 とくに「人」に関して言えば、あえて「肯定と否定の天秤」にかける必要はないのではないかと思う。
 自分は存在している。それでいい。自分とは違う人も存在している。それでいい。

 社会は川岸の石の集まりに似ている。
 様々な色や形の石が、ただそこに存在する。たまに誰かがやってきて、そのうちのひとつを手に取る。
 水切りをしたい少年は平たい石(色はなんでも良い)を手にするかもしれない。川沿いを散歩していた老人はふと目についた石を玄関に飾るかもしれない。

 僕はそんな様子をフレームに収めて、感情を込めずにシャッターボタンを押す。
 誰かが作品として評価をする事のない写真。日常のひとコマ。

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