2018年、過去最高にしあわせな自分の新年の抱負

新年を迎えた。例年だとMacBookを実家に持ってきて日常と同じようなことをして過ごすのだけど、今年はiPhoneとKindle以外の一切を自宅に置いてきた。3日間はマンガだけを読んで過ごす。余計なインプットをしないということと、アウトプット環境に身を置かないことで逆にアウトプットする欲求を高めるという意図がある。

今年の抱負、抱負と言っていいのかわからないのだけど、今年も例年通り頑張らずに生きていくことにする。例年通りと言いつつ、例年ついつい頑張ってしまう。今年こそは頑張らずに生きていきたい。

学生時代に統合失調症だとかうつ病だとかまあまあ大変な時期を過ごした。そしていまでも心療内科に通って処方される薬を飲み続けている。脳内の化学物質の流れの調子が悪くなることがある。そのことを知っているから自分のメンタルと日々向き合っている。調子が悪くなりそうな時には早めに察知して対処することができる。その結果、多少のことでは折れないメンタルを手に入れることができた。学生時代に病気をして本当によかったと思っている。

子ども3人のシングルファーザーであることを打ち明けるとき、ほとんど全員が同じリアクションをする。大変ですねと。ただ一度だけ例外があった。東京で子育てしながらバリバリ仕事をしているママさんに「楽しそう!」と言われたのだ。その通り。もちろん大変なこともあるけれど、楽しいからやっていける。それに圧倒的に自由だ。僕は自由が大好きなので、いまの自由な生活に満足している。

とにかくいまが過去最高にしあわせなのだ。この歳になると昔に戻ってやり直したい人も多いと思うのだけど、僕は昔になんて絶対に戻りたくない。毎年、過去最高にしあわせだと感じている。しあわせ記録が年々更新され続けている。新年を迎えて、もうすでに今年が楽しみで仕方がない。もっとも顔や態度に出ないタイプなので、人から見ると飄々としているように見えるのだろうけど。

いまがしあわせじゃない人は、すぐにシーチキンを買って来るべきだ。シーチキンとマヨネーズを和えてパンに塗ってトーストする。ひと口かじる。ぜったいにしあわせになれると思う。成功するまでしあわせになれない人は何をもって成功とするのだろうか。成功としあわせに相関関係はあるのだろうか。孫正義と僕のどちらがしあわせかなんて、誰に判断できるだろうか。

日本人は頑張ることが素晴らしいだとか、努力すれば報われるだとか、そういった幻想を植え付けられて育つ。でもみんなが頑張れるわけじゃない。頑張れる環境にない人はどうすればいいのだろうか。頑張っている人を見ると応援したくなる。というのはよく聞く言葉だ。それでは、自分の力では頑張ることができない人は応援しないのだろうか。精神疾患で頑張れない人、貧困で選択肢の失われたひとり親家庭は見捨てるのだろうか。

僕は生まれた時点で両親に恵まれていたので完全に勝ち組だ。ありがとうございます。でも生まれた時点で頑張れない環境にある人たちもいる。それは自己責任ではない。一部のうまく逆転できた人たちが何を言ったとしても、それは特殊ケースでしかない。

僕はみんながしあわせになれる社会をつくりたい。もちろんそんな大きなことをできるとは考えていなくて、しあわせな社会のその一部分をつくれたらいいと思う。さいわい僕は小さいけれど会社を経営している。みんなにやさしい会社づくりはそのひとつだ。こうすればうまくいくんじゃないかというモデルケースをつくって提案することができれば、社会に波紋を広げることができるのではないかと妄想している。そして去年から本格的にはじめたボランティア活動。テクノロジーの力を使った新しいボランティアのあり方を模索してみたい。まだまだ大きなことはできないけれど、小さくはじめていけたらと思う。

Facebookの友だちには同年代の経営者も多く、今年も突っ走りますという人が多い。新年に限らず普段から、突っ走ります、動き出しました、うまくいきました、という報告を目にする。それはそれでとてもすばらしいことで尊敬もしている。けれども僕は突っ走らない。走らない。歩いて歩いて。どこまでも歩いていこうと思う。

すっかり長くなってしまったけれど、2018年も頑張らずに生きていきたいと思います。本年もよろしくお願いします。

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